1011/1096 自分のダサさとどう付き合っていますか
吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1011日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です
1011日目。今日、ブログ執筆だけでは満足できない自分というものをはっきりと認識した。1011日目にしていきなりに、”ブログ記事”として認識しながらなにかを書くことが、なんとなくエキサイティングではなくなっていることに気がついた。
ブログというのは、たとえばFacebookのタイムラインになにかを書いて投稿するのに比べたら、ずっと財産になるのは確かだと思う。たとえばFacebookに書くことというのは、ほとんどただの個人的なつぶやきに近い。ブログに綴って表明するほどのこともなかったので、ここに書きました。というポーズを取ることができる。
ブログだと、たどって読めるものとして残るのはもちろん、もう少しその人のその時の意見としてしっかり残るので、SNSのタイムライン投稿よりもひとつ、ハードルが上がる。だから、まずはそれをやってみたかったし、そこにある程度のやりきった感、全力投球感を得てみたかった。
そのためには、毎日書いて三年くらいやる必要があるだろうとも思っていたが、本当にそのとおりだった。無駄な誤解のないように書くと、あくまでもこれは個人的な感覚だけれども、三年近くなって、ああ、ブログに綴っているものは、あくまでもブログ記事で、それ以上でもそれ以下でもないのだなと思うようになった。
ブログが媒体だと、今のわたしは「これはブログ記事だ」という前提でものを書いてしまう。作品と呼べるものではなくて、もっと気軽なものだという心構えで。今は、自分のそれを甘えだと感じてしまう。
その点で、「まずはブログを書けるようになってみたい」と思っていたころと比べてみると、ある種の成長があったように思う。成長と言っても、単に反復による慣れのようなものだとは思うけれども。でも、「いや~ブログを書くのって緊張するわー!!」と思っていた自分が、今やなんたるひよっこ!!と思えるのは嬉しい。
同じことを続けていくことの、静かながらも凄まじい威力を感じた。
反復、継続、これはほぼ魔法と言えると思う。
わたしたちを知らぬ間に変怪させる、強力な変身魔法!
何かができるようになりたい人は、ある程度の要領は上手にやっている人を真似たり無駄を省いたりして、あとはとにかく繰り返せばいい。
それが、一番の近道。
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自分はダサい。永遠にダサいのだと思う。たくさん輪廻転生してきたとして、これまでダサくない人物だったことがなかっただろうと思う。
どういうダサさかと言うとそれもまた、いかなるダサさも網羅しているように思う。カッコ悪さの素、みたいなものは全種類持っている。それで、発動頻度の高いものと低いものとの差があるだけのように思う。
ダサさの中には、これはこのまま晒して見せなければダサいままだぞと思うもの、もうそれをダサいと思うのはやめようぜ…というもの、克服してみせようぞと思うもの、いろいろだ。けれどもそのほぼすべてが、生き延びたがり、ビビリ、緊張、注意不足、頭が悪い、身勝手、に属するものである。
わたしはこれを、人類のもつ共通の悩ましさだと思っている。
みなさんは、自分の中のダサさと、どうおつきあいしているだろうか。
わたしはこれについて、放置もできず、手放しに楽しめるわけでもなく、かといって百点満点の戦い方ができることもめったになく、人生のほとんどのあいだ、苦悩しながらつきあってきている。今はというと、それなりに年をとったのもあり、適当に楽しんで戦ったり許したりしていこうと思っている。
ぼちぼちいきましょう、それなりに苦悩して、その気になったらいっちょがんばって戦って、克服も楽しんで、あって当たり前のこととして、人生の”面白み”、”うまみ部分”として、のけ者にしないで仲良くしていきましょう、と思っている。希望的にそうしていきたくて、自分をそのように諭してきたところがある。
このダサさのメンテナンスは、わたしたちの身体との付き合いと似ているように思う。まあ、お腹が空いたり眠くなったりトイレにいきたくなったり汗をかいたりするのは、それ自体がカッコいいわけじゃない。これらはカッコよかろうが悪かろうが当たり前の生理現象だし、なんとか満たしていかなくてはならないところだ。これと似ている。だから、あまり毛嫌いすることもないように思う。面倒だったりしても、付き合っていかなくてはならない。だったら、大事に世話をするような気持ちでやっていったほうがいいように思う。
自分のもつダサさの代表的なものが、ビビリである。
新しい状況、初めてのこと、こういうことに対して「怖い」という反応が起こる。そのたびに自分のことをどこか「ダサいなあ」と思う。
けれどもこれを、海や川やプールなどで水に入るときと同じだと思うと、初めに反応が強いのは仕方がないことだと思える。入ってしまえば慣れるのに、初めはどうしてもヒヤヒヤする。これは万人共通のことだ。ブラッド・ピットだってそうだ。ジョージ・クルーニーだってそうだ。煉獄杏寿郎だってそうなのだ。
わたしたちはこの身体をもってしてここに存在しているので、身体の反応がそのままわたしたちの反応と言えてしまう事がほとんどなのだと思う。それはダサくなんかないのだ。
だからはじめの反応がダサめに見えても、実はそれは普通のことなのだと思うのだ。ダサいのではなくて、ダサい側の分かれ道が発生しただけだ。そこで、本当はやってみたい気持ちもあるというのに、その最初のビビリ反応に支配されて「やめておきます」としたときに、自分がダサい側の道に進んだことが確定するような感覚がある。
こうしたことを観察してきて思うのは、初めのビビリ反応などで自分をダサいというレッテルを貼ってしまわなくていいということ。そこでダメだなあと思わなくていいのに、無駄にアタシってダメだわみたいなことを思ってしまいがちではないだろうか。そこを、身体があるのだから仕方がない、に変えると、とて気楽になる。
はじめのビビリ、はじめのずるさ、はじめの勝手さ、はじめの逃げ腰、それらは仕方がないし当然だ。それを感じたときというのは、そちらを選ぶ道が現れただけだ。もちろん、目の前で電車が脱線したら逃げたほうがいい。銃を持ったやつが現れたら、基本的には隠れたほうがいい。危機的状況は回避するに限るのだけれども、そうでないときはそれ自体にウジウジしなくていいのだと思うのだ。ああまたビビっちゃったわ、というように思わなくたっていいのだとわたしは思う。身体のあるものだもの、しゃーないと思う。
そして、このはじめの反応があるのは当然のことだからこそ、そのあとの選択が問われるのではないだろうか。
文章にしてしまうととても幼稚なようなのだけれど、わたしは、自分の思う、カッコいいほうを選ぶのがいいと思う。
なぜかというと、結局はその本人の思うカッコよさに、その人の憧れが、道徳観が、良心が、反映されていると思うから。
損得勘定だけに従って人を大切にしなかったり、
ビビリに従って好奇心を曲げてしまったり、
自分だけを守ろうとしたりしてしまうとき、
わたしたちはつい、自分で自分にダサ確定の判子を押してしまいがちだ。自分ってずるいな、嫌なやつだな、ビビリだな、と思ってしまう。それはやがてセルフイメージを悪くし、自己評価を下げてしまう。結局損をするのは自分なのだといつも思う。
カッコいい方を選んだとき。たとえば利他的な行動を取ったときに、その人からの感謝を求めないで、周囲から認められることを求めないで、自分が「やばい俺かっこいい」と思うことを目指す。これが実は最大のご褒美なのだ。
なぜなら、自分で自分を素敵だと思ってしまうから。そのセルフイメージの変化を、見くびってはならない。それによって人生に、「嬉しい」「誇らしい」が増える。その「嬉しい」と「誇らしい」の体感を見くびってはならない。それはわたしたちの選択を変え、やがては習慣を、人格を、運命すらも変えていく。
いざというときに自分のダサ道(みち)を選ばずにそのカッコいいほうを選べるようになるためには、まずなによりもはじめに、なにがカッコいいと思うのかを自分の中でひたすら求めてはっきりさせていくことである。
🌊🔥🌺
あなたはなにをカッコいいと思いますか。
わたしは煉獄杏寿郎をカッコいいと思います。
故・中村哲医師をカッコいいと思います。
他にもたくさん、ちょっとでも真似できたらカッコいいと思う人がいます。
こういうことって結局自分の中でごまかしが効かないので、いくら他の人が「イチローはカッコいい」と言っていても、自分の心に響かなければ意味がないんですね。まわりに流されないで、自分にとってはなにが響くのかを感じ取ってみる作業なしには、いざというときにすぐにダサ道に入ってしまいます。奥のダサ道にすぐに迷い込んでしまいます。
であるからして、なにがカッコいいと思うのかをいつも探って、見つけて、感動して、胸に置いて、それをかぎりなく愛しましょう。それを追って自分なりのカッコよさを自分のために選んでいくことは、人間の人生の挑戦であり、面白みであり、わたしたちを満たす高潔さに触れるための入り口ではないでしょうか。100%とはいかないし、かっこ悪い思いをたくさん味わいながらの求道ですが、だからこそやりがいがあると思うのです。
わたしたちの心の奥から求めていたものとの出会いは、こんな道の先にあるのです。人生に不満が多い人は、自分に対してカッコいい姿を見せてやって、自分を喜ばせてあげるのが良き道ですね。あたしゃも頑張ろう…!!
というわけで今日は、ダサさとの付き合い方についてのわたしの好きな解釈のシェアでございました。
それではまた、明日ね。