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アド ポルタス ハンニバル

 紀元前247年、ハンニバル・バルカは、カルタゴで生まれた。
 カルタゴはフェニキア人の都市国家で、北アフリカにある。現在のチュニジアに存在した。商業民族として覇を競い、ギリシャ人が東地中海を、フェニキア人が西地中海を押えた。彼らはバアル神を信じた。各家庭にミニチュアがあった。だがバアル神はマモンの神である。
 ハンニバルは「バアル神の恵み」、バルカは「雷光」という意味だ。旧約聖書で預言者エリヤが、淫祠邪教のバアル信仰と戦った事で有名だ。バアル神は赤子の生贄を要求する。邪神だろう。そのせいか、ハンニバルの生涯は暗く、孤独に満ちている。信じた神が良くない。
 フェニキア人は自分で戦わず、傭兵を雇って戦わせる。ギリシャ・ローマのような市民軍による重装歩兵がいない。一部の貴族が傭兵団を指揮する。ハンニバルが属するバルカ一族だ。彼らは通商を重んじた。対抗派閥としてハンノン一族がいる。彼らは農業を重んじた。
 ハンニバルは、9歳までカルタゴで暮らした。第一次ポエニ戦争では、父ハミルカル・バルカはシチリア島で勇戦したが、本国がローマとの海戦に敗れたため、同島から撤退せざるを得なかった。戦後、ハンニバルは、父によって、バアル神殿で、ローマ打倒を誓わされた。
 
 紀元前228年、バルカ一族はスペイン東岸にカルタゴ・ノウァ(現カルタヘーナ)を建設した。通商を重んじ、国外に飛び出した結果だ。こうして、カルタゴ本国から半ば独立した。父ハミルカルがヒスパニア経営に着手して亡くなり、叔父ハシュドゥルバルの代で完成した。
 この叔父の元で、ハンニバルは、イベリア人との融和に努め、族長の娘と結婚している。ハシュドゥルバルはイベリア半島内で勢力を広げ、ローマを刺激した。そしてカルタゴ本国ではなく、ハシュドゥルバル個人とローマの間で、エブロ川を北限とする条約が結ばれた。
 紀元前221年、ハシュドゥルバルはカルタゴ・ノウァにおいて暗殺された。真相はよく分かっていない。ただ結果的に、26歳のハンニバルが、ヒスパニアの軍司令官に推薦された。
 戦上手な将軍であった父、経営手腕が卓越した叔父、そしてアレクサンドロスを師に、若きハンニバルの勇躍は始まる。ミエザの学舎ではないが、ヘタイロイもいた。主に親族だったが。
 三男マゴ・バルカ、次男ハシュドゥルバル・バルカ、騎兵隊長ハシュドゥルバルだ。三男と騎兵隊長は、長男ハンニバルに同行した。次男はヒスパニアに残って、根拠地を守った。
 シレヌスというギリシャ人も、ハンニバルに同行した。ギリシャ語の教師であり、戦記を書いていた。学者カリステネスと、親友ヘファイスティオンのような役回りをしていた。
 ハンニバルとシレヌスは、しばしばアレクサンドロスの東方遠征の話をした。

 紀元前218年5月、29歳のハンニバルは出陣した。第二次ポエニ戦争が始まった。
 だがハンニバルの終生の好敵手、スキピオ・アフリカヌスも、18歳となっており、ローマ軍に騎兵で従軍していた。紀元前218年11月、ティキヌスの戦いで、両者は初めて、戦場で交叉した。スキピオは、執政官である父プブリウス・コルネリウス・スキピオの命を助けた。
 「ローマのコンスルを取り逃がしましたな」
 馬上のギリシャ語教師シレヌスが、ハンニバルに声を掛けた。ローマ軍は敗走している。
 「……いや、私は執政官以上の者を取り逃がしたかもしれない」
 シレヌスは首を傾げた。
 ハンニバルの瞳は、撤退する一騎の若駒を捉えていた。
 
 話は少し前のアルプス越えに遡る。ローマ側も、ハンニバルがヒスパニアから出陣した事は分かっていたので、執政官が指揮する二個軍団を派遣して、追跡していた。だが途中で、ハンニバル軍が行方不明となり、ローマ側は慌てた。ハンニバルは一体どこに行ったのか?
 当時の人は、大軍をもって、アルプスを越えるなど、想像の圏外だった。ましては、アフリカ象を率いて、2,000m級の峠を越えるとか、無理だった。だからマッシリア(現マルセイユ)を必ず通る筈だと考えた。だがハンニバルは、史上初の大軍によるアルプス越えを敢行した。
 脱落者は多かった。ヒスパニアを出発した時の軍勢が、歩兵90,000、騎兵12,000、象37だ。スペイン・フランス間のピレネー山脈越えで、歩兵50,000、騎兵9,000、象37に減少した。フランス・イタリア間のアルプスを越えた時の軍勢は、歩兵20,000、騎兵6,000、象3になった。
 約150年後にカエサルが、約2,000年後にナポレオンが、アルプス越えをしている。
 ハンニバルは、26,000の軍勢で、イタリア北部に降下してきた。現地のガリア人が、ハンニバルの軍勢に参加して、たちまち10,000人増えた。だが共和政ローマが率いるイタリア半島のローマ連合の総戦力は750,000だ。ローマ単体で280,000人も動員できる。桁違いだ。
 果たして、ハンニバルは、この戦力差で、ローマに勝てると考えていたのだろうか?ローマ連合を構成する同盟国の切り崩しを考えていたのか?それはそうだろう。だが本当の狙いは、フェニキア・マケドニア・ローマによる天下三分の計だ。商業民族は顧客の滅亡を望まない。
 これは秘中の秘で、誰にも喋らなかった。ハンニバルは戦術家ではなく、戦略家だった。
 
 紀元前218年12月18日、トレビアの戦いが起きた。ティキヌスの戦いは、騎兵による不期遭遇戦だったが、今回は会戦だ。ハンニバルは歩兵30,000、騎兵10,000、象3。ローマは歩兵36,000、騎兵4,000だ。結果はハンニバルの勝利で、ローマは20,000も死傷者を出した。
 この戦いは、ハンニバルの最初の包囲殲滅戦だった。後のカンナエの戦いの原型である。
 中央の歩兵が互角に戦っている間、左右両翼の騎兵戦でハンニバルが勝利して、この両翼の騎兵隊が、ローマ重装歩兵の左右側面から襲い、ハンニバルの包囲殲滅が完成した。ハンニバルは、ローマの執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスを打ち破った。

 紀元前217年6月21日、トラシメヌス湖畔の戦いが起きた。ローマは執政官を交代させ、新たに二人選び、共同でハンニバルに当たるように命じた。4個軍団50,000人だ。執政官は二手に分かれて、ハンニバルを挟み撃ちにしようとした。だがハンニバルは読んでいた。
 その日の朝は、濃霧に支配されていた。執政官ガイウス・フラミニウスが率いる二個軍団25,000人は、北に丘陵、南に湖面、西から東に向かって隘路を進んでいた。自然、隊列は細長くなる。そこに待ち伏せしていたハンニバル軍が襲い掛かった。三方向からの包囲殲滅戦だ。
 またもやローマは完敗を喫した。戦死者15,000。戦闘三時間。生存者6,000。執政官は戦死した。同格の執政官グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスは、同僚と合流できず、撤退した。元老院は衝撃を受けた。国家非常事態として、独裁官ファビウス・マクシムスを選出した。

 元老院が自信を持って送り出した執政官が3人も破れたのである。独裁官ファビウス・マクシムスは、ハンニバルと戦わないと決めた。持久戦だ。だがヒスパニアには、前執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオを送った。弟のグネウスと合流して、計4個軍団50,000だ。
 スペインでは、次男ハシュドゥルバル・バルカが、バルカ一族の根拠地カルタゴ・ノウァを守っている。ヒスパニア方面でも戦いは始まり、ローマはハンニバルに揺さぶりを掛けた。だが最終的には、スペイン戦線でも、ローマは破れた。スキピオの父は戦死した。

 ハンニバルは、略奪行をしながら、イタリア中部に移動していた。そしてアペニン山脈を越えて、アドリア海側から地中海側に横断しようとしていた。独裁官ファビウスは、好機が到来したと感じた。峠の隘路を抜けるなら、ここで待ち伏せすれば、勝てる。伏兵を置いた。
 「ハンニバルは今夜、あの峠を越える」
 用意した牛2,000頭に松明を付けて、峠を走らせた。ローマ軍は見事に引っ掛かった。中国であれば火牛之計と言う。春秋戦国時代だ。三国志の孔明も使い、源氏の木曾義仲も使った。

 ローマでは不満が渦巻いていた。攻勢民族である。守勢は嫌だった。独裁官ファビウスは、Cunctator(コンクタトール)と呼ばれた。グズ男という意味だが、後に評価されて、持久戦主義者に変わった。だが独裁官の任期は半年である。任期が切れると、雰囲気は一変した。
 元老院は、貴族出身のルキウス・アエミリウス・パウルスと、平民出身のガイウス・テレンティウス・ウァロを執政官に選出した。前者は慎重で、後者は積極攻勢だった。ローマ社会の縮図とも言える人選だった。だが結果として、悪く作用する。前者は後者に引きずられた。

 紀元前216年8月2日、カンナエの戦いが起きた。この戦いはハンニバルの名を不朽にした。時に31歳。ローマ軍、歩兵80,000、騎兵7,200。ハンニバル軍、歩兵40,000、騎兵10,000。
 ローマ軍=歩兵11:騎兵1ハンニバル軍=歩兵4:騎兵1。この比率は記憶して欲しい。ザマの戦いでは、この比率が逆転する。
 ハンニバルの古参兵は、カンナエで生まれ、ザマで死んだ。
 20歳のスキピオ・アフリカヌスは、ローマ軍右翼の騎兵隊で、一騎兵として参戦していた。
 その日の指揮は、ガイウス・テレンティウス・ウァロの番だった。ローマでは、執政官が戦場に二人いる場合、一日で交代する。今日こそ決着を付ける。小競り合いはもうやめだ。
 決戦場は平野だった。アドリア海に面している。オファント河が流れており、右岸が戦場となった。左岸だと起伏がなく騎兵に有利で、右岸だと起伏があり歩兵に有利だからだ。ウァロは、歩兵の正面突破力を高めるため、陣形を横長ではなく縦長にした。これは悪手だった。
 ハンニバルの頭の中には、テーバイのエパメイノンダスの斜線陣があった。アレクサンドロスは、ガウガメラの戦いで斜線陣を使って、中央のギリシャ重装歩兵を持ちこたえさせ、右翼の騎兵隊で回り込み、ペルシアの大軍を破った。だがアレは包囲殲滅戦ではない。不完全だ。
 ハンニバルは戦闘前のブリーフィングで、イベリア・ガリア軽装歩兵に説明した。
 「諸君は合図があるまで、守りに徹して、時間を稼いで欲しい。騎兵が勝つまでの間だ」
 これは過酷な指示だった。しかも陣形は弓なりの凸型だ。斜線陣の応用だ。前衛の軽装歩兵であるイベリア人・ガリア人が受け持つ。後衛の重装歩兵はフェニキア人で、予備戦力だ。

Proelium Cannense Ⅰ
カンナエの戦い 1


 戦いが始まると、中央のハンニバル軍は凹み始めた。ローマ軍は正面突破力を高めた陣形だけに、攻勢が凄まじい。ハンニバル軍の前衛、軽装歩兵団は押されて、後退し始める。
 ローマ軍左翼の同盟国騎兵隊4,800は、ウァロが指揮した。ハンニバル軍右翼のヌミディア騎兵6,000と戦う。最初だけ善戦したが、結局敗れた。ヌミディア騎兵はローマ歩兵に向かう。
 ローマ軍右翼のローマ騎兵隊2,400は、ルキウス・アエミリウス・パウルスが指揮した。ハンニバル軍左翼のイベリア・ガリア騎兵隊4,000と戦う。あっさり負けた。執政官は落馬して、ローマ歩兵の指揮に向かい、そこで死んだ。イベリア・ガリア騎兵もローマ軍本体に向かう。

Proelium Cannense Ⅱ
カンナエの戦い 2


 ハンニバルは、両翼の自軍騎兵が勝利して、ローマ軍本体の後方に回ったのを見て、合図を送った。イベリア・ガリア軽装歩兵団は左右に割れた。前方に突進していたローマ重装歩兵団は、フェニキア人重装歩兵団の前に躍り出た。両者の激突が始まると、包囲の輪が出来た。
 ローマ歩兵70,000は、前方にフェニキア人重装歩兵団、左右にイベリア・ガリア軽装歩兵団、後方からヌミディア騎兵とイベリア・ガリア騎兵から攻撃を受けた。包囲殲滅戦は完成した。


Proelium Cannense Ⅲ
カンナエの戦い 3


 近代兵器を使っていないのに、将兵の90%以上が死んだ。戦死というよりは、圧死だったらしい。包囲殲滅戦は恐ろしい。70,000のローマ人が死んだ。執政官ウァロは生き残った。騎兵だったからか。スキピオ・アフリカヌスも生き残った。だがこの戦場は終生、忘れなかった。
 中隊を指揮した48人の元老院議員も全員戦死した。ローマ元老院の定員は200だ。
 圧倒的な勝利にハンニバル軍は沸いた。騎兵隊長ハシュドゥルバルは、このまま首都ローマを攻めようと説いた。だがハンニバルは首肯しなかった。大都市ローマの防壁は高い。無理だ。
 「Vincere scis, Hannibal; victoria uti nescis!」
(ウィンチェレー シース ハンニバル ウィクトーリア ウティ ネーシース)
(あなたは勝つ事を知っているが、ハンニバルよ。あなたは勝利を知らない!)
 騎兵隊長がそう言った時、ハンニバルが何と答えたのか知らない。だが数年後、ローマには行ったのだ。すぐ引き返したが、ローマ人の記憶に残った。だから母たちは我が子に言った。
 「Hannibal erat ad portas!」
 (ハンニバル エラット アド ポルタス!)
 (戸口にハンニバルがいるよ!)
 スキピオの漫画『アドアストラ』ではないが、これがアド ポルタス ハンニバルだ。


Ruinae Carthaginis
カルタゴの遺跡


 
            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺063

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