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玄奘、ガンダーラに到着

 西域求法の旅、それはガンダーラで以て、一つの到達点を迎える。
 だがその前に立ち塞がるのが、最後の難所、ヒンドゥークシュ山脈だ。
 アフガニスタンを北東から南西に、約1,200kmに渡る山脈だ。
 7,000m級の山々が連なるが、通路となる峠でも3,000m級はある。
 BC329、アレクサンドロス三世は、3,848mのハワク峠を越えた。
 10日間に及ぶ壮絶な行軍だった。AD634、玄奘も同じ峠道を越えた。
 玄奘は、全文9,500字の簡潔な旅行記『仏国記(法顕伝)』を思い出した。

 山の北側を〔登っている〕うちに、寒風の突発〈暴起〉するのに遭い、人々はみな声もなく恐れおののいた。〔そのうち〕慧景一人はもはや歩けなくなり、口から白沫を出しながら、法顕に次のように語った。「私はもはや助からないでしょう。どうか都合のよい時に行って下さい。一緒に死んではいけません」こうして〔慧景は〕そのまま死んでしまった。法顕は彼の体を撫でて悲嘆にくれ、「われらが真の目的はまだ達していないのに〔こんな所で死んでしまうとは……〕運命は如何ともしようがありません」と言って号泣した。(注166)

 同じ場所ではないが、雪山の山越えで、法顕は法友を失っている。
 彼らは十名前後の旅の僧で、チームを組んで、天竺まで渡った。
 途中で帰った者、インドに帰化した者、無事に帰還した者など様々だ。
 今、玄奘も、同じ苦労をして、かつての大王や求法僧と同じ峠を越えた。
 ガンダーラの平野に入った。ここはもう天竺だ。とうとうインドに来た。

 ここに『ミリンダ経』というお経がある。否、この名称は正確ではない。 
 漢文で『那先比丘経』(なせんびくきょう)、日本語で『弥蘭王問経』と言う。現代文では『ミリンダ王の問い』と訳される。日本にも伝わっている。内容はギリシャ人王メナンドロスと仏僧ナーガセーナとの討論である。
 ギリシャ哲学対仏教という異色の東西対決である。組み合わせは面白い。
 最終的にミリンダ王は、三帰五戒を受けて、仏教を信仰する事になる。
 転生輪廻やカルマが問題となっているが諸法無我の解釈が間違っている。  
 このお経に従えば仏教は無霊魂説になる。霊魂は存在しない事になる。
 これでは唯物論と変わらない。現代ではこの無霊魂説が広まっている。
 マルクス主義の影響だろう。解釈を間違えた原因は、言葉の問題だろう。
 このお経は、前2世紀頃成立したと考えられる。釈迦入滅後400年だ。
 だから釈迦の直説・金口(じきせつ・こんく)ではない。弟子の説話だ。
 ナーガセーナは法を曲げているが、気が付いた様子がない。悲劇だ。
 現代の仏教で、無我がニヒリズムに陥ったのは、このお経のせいだ。
 霊魂なんて存在しないから、無我とは、自己が非存在となっている。
 人間の主体が、肉体でも、霊魂でもなくて、一体何が転生輪廻するのか?
 カルマは実体ではない。そして霊魂が実体で、カルマが付随する。
 とにかく諸法無我が、無霊魂説と解釈され、仏教は虚無主義となった。
 この解釈は決定的に、仏教を破壊した。このお経の編纂者の罪は重い。
 
 玄奘は貝葉写本を閉じると、テュルク系民族が治める城に向かった。
 だがそこには無数の仏像が置かれていた。無造作に通路に置かれている。
 そして、かなり顔の造形が異なっていた。西方だ。ギリシャ風だ。
 アポロン風、ヘラクレス風、ヘルメス風の仏像が多数ある。
 これがガンダーラ美術だ。特にヘラクレス風の仏像が、目を惹いた。
 「この仏像は一体?」
 玄奘は興味を覚えたので、城の主より先に仏像師を探した。
 果たしてその仏像師はいた。だが表情が昏い。迷いが見える。
 玄奘は、唐僧であると自己紹介すると、仏像師と対話を始めた。
 「……もう仏像を彫るのを止めようかと思っている」
 「それはなぜですか?」
 そのギリシャ人仏像師は、視線を彷徨わせた。
 「……虚しいからだ。霊魂は存在しない。そして肉体は滅びる」
 足元にοἶνος(オイノス)と書かれた葡萄酒の甕が、転がっている。
 「霊魂は非存在ではない。ちゃんと存在する」
 転生輪廻の主体だ。霊魂がないと、生の意味が分からなくなる。
 「……諸法無我だ。霊魂は存在しない。ただ肉体のみあるだけだ」
 どうやらこのギリシャ人は、『ミリンダ経』を読んでいるようだ。
 「それは最早、仏教ではない。肉体のみ肯定してどうする?」
 「……では問うが、仏教とは何だ?」
 「仏を信じる事だ」
 「……仏を信じる事とは何だ?」
 「法を見る事だ。法を理解する事だ」
 ギリシャ人は少し考えた。そして再び問うた。
 「……仏とは何か?」
 「仏とは法である」
 「……法とは何か?」
 「如来の三宝印だ」
 「……如来の三宝印とは何か?」
 「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静だ」
 「……諸法無我とは何か?」
 「それは空だ」
 「……空とは何か?」
 「無の対概念だ」
 「……無と空はどう違うのだ?」
 「存在と時間と言い換える事もできる」
 「……無が存在論で、空が時間論なのか?」
 ギリシャ人の目に光が宿った。Θαυμάζειν(タウマゼイン)驚いている。
 「なぜに無であって、存在でないのか?なぜに存在であって、無ではないのか?無とは存在であり、存在と無は、同じコインの表裏のようなものだ」
 玄奘の思考は、時空を超えて、1,400年先の思考を再現していた。
 「……空は?空を教えて下さい」
 「色即是空、空即是色」
 「……『般若心経』は知っているが、意味が分からない」
 ギリシャ人は困惑していた。
 「水は冷やせば氷になり、温めれば、水蒸気になって蒸発する」
 「……空とは、同じものが状態変化する事を言っているのか?」
 ギリシャ人は愕然としていた。だがこれ以上もなく明晰判明だ。
 「人間も死ねば霊になって、生きている人から見れば、蒸発している」
 「……それはそうですが……」
 ギリシャ人は絶句している。玄奘は微笑んだ。
 「……師はなぜにそこまで知っているのですか?唐は浄土ですか?」
 「唐が浄土だったら、天竺まで来ない」
 話があべこべになっている。天竺に本当のお経を求めて来たのだ。
 「……では師だけが悟られているのですか?」
 「そんな事は決してないが、人より多少、努力しただけだ」
 「……教えて下さい。どうして諸法無我が間違って伝わったのですか?」
 玄奘は腕を組んで考えた。
 「無我という言葉が問題だ。非存在という意味になっている」
 言語的な構造問題もありそうだ。実態に即した思考を妨げている。
 「……諸法無我の本当の意味は何でしょうか?」
 「本来空であるから、時間の中で、囚われる事なく、己を虚しゅうせよ」
 「……それが諸法無我の本来の意味ですか?」
 玄奘は頷いた。これが本来の仏道修行だ。執着を断つ教えだ。
 「……師よ。ありがとうございます。迷いから覚めました」
 ギリシャ人は居ずまいを正した。
 「……もう難しい話は終わった?」
 猿渡空がひょっこり姿を現した。いつもの私服姿だ。
 「ああ、終わったよ」
 玄奘がそう答えると、ブタの💝様も現界した。
 「……オレらは荒事要員だからな。論戦では役に立たん」
 河童型宇宙人が、ちょっとだけ不満そうだった。
 「……でもお坊様は凄いですね。一人でアテナイの学堂のようです」
 女の童が懐かしそうにそう言うと、ギリシャ人がちょっと驚いて尋ねた。
 「……君はἙλλάς(ヘラス)に行った事があるのか?」
 女の童は頷いた。全盛期のアテナイを知っている。
 「……かの地には、智慧を愛する人たちが集まる森があって、よく魂を肉体からχοριστος(コーリストス)、分離させていました」
 列柱を逍遥する人たちが集う森があった。リュケイオンと言う。
 「……昔西方に、アリストテレスという偉いお坊さんがいて、τὰ μετὰ τὰ φυσικά(タ・メタ・タ・ピュシカ)『形而上学』というお経を書きました」
 とても不思議な内容だ。ギリシャ的でない。きっと前の文明の理神論だ。
 「それはいつか行って、ぜひとも写経してこないとな」
 玄奘も上機嫌だった。誠に世界には貴重なお経がある。ありがたい話だ。
 「……とりあえず、盛り上がった処で、エンディングに行こうか」
 猿渡空はスマホで、ゴダイゴを検索した。あった。これだ。これ。
 「……皆、これ知っている?今の私たちにピッタリな歌」
 皆でガンダーラを歌った。それが玄奘、ガンダーラに到着だった。

注166 『法顕伝・宋雲行紀』長沢和俊訳注 平凡社 東洋文庫 p51~52

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺047

『玄奘、ブッダガヤを跪拝』 玄奘の旅 13/20話 以下リンク

『玄奘、西天取経の旅に出る』 玄奘の旅 1/20話 以下リンク


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