『人間臨終図鑑』(上巻・下巻)ノート
山田風太郎著
徳間書店刊
函入り・上製本の裏見返しを見ると、昭和62(1987)年10月22日と購入日の日付印が捺してある。購入した書店はもう10年以上前に閉店した本屋で、35年前に購入した本だ。初版は1986年となっている。
上巻(425ページ)は15歳から64歳で亡くなった人びと、下巻(435ページ)では65歳~121歳で亡くなった人びとのいわば簡単な評伝と死亡の原因や死に様が書いてあり、人の〝生き死に〟ながら、誤解を恐れずに言うと実に面白い。
「十代で亡くなった人々」の章で最初に取り上げられているのは八百屋お七をはじめ、アンネ、森蘭丸、天草四郎、ジャンヌ・ダルク、愛新覚羅慧生ら11人。「二十代で亡くなった人々」では、赤木圭一郎、沖田総司、ジェームス・ディーン、石川啄木、源実朝、高杉晋作、夏目雅子、吉田松陰など33人――とこの調子で挙げていくとそれだけで400字詰め原稿用紙が10枚以上になりそうなくらい多くの人々を取り上げている。
上巻で473人、下巻で450人(本のどこにも取り上げた人数が書かれていないので目次で数えた!)の合計923人の古今東西(陳腐な表現で、noteで使うのは2回目だが、この便利な熟語しか浮かばないのだ)の歴史上の人物から、哲学者、政治家、科学者、俳優、革命家、芸術家、文学者、小説家、軍人、犯罪者、音楽家、宗教家などが取り上げられており、自分が知っている名前を見つけ、そこを開いてみるのも面白い。読んで感じたのは(今回取り上げるにあたってあらためて読んだのだが)、教科書や本で学んだ人たちが、私が思っているより若い年齢で亡くなっていること。平均余命が延びたこともあり、昔は老成する年齢も若かったのだろうと想像するが、この人はまだ30代だったのかと驚くことが多かった。取り上げられた人々の死因は様々で、獄死、病死、戦死、自死、刑死などなど。
下巻の最後の方――「九十九歳で死んだ人」には大漢和辞典の編纂者で、浩宮(今上天皇)の名付け親であった諸橋轍次がとりあげられている。このページには山田風太郎の、「死者への記憶は、潮がひいて砂に残った小さな水たまりに似ている。やがて、それも干上がる。」と警句めいた一節が書かれているが、「諸橋大漢和」の業績は数百年にわたって残るものであろう。
百代で亡くなった人は、作家の野上弥生子(百歳)、国文学者の物集高量(もずめたかかず。百六歳)、家康が帰依した天海僧正(百七歳)、彫刻家の平櫛田中(百七歳)、京都清水寺の住職の大西良慶(百八歳)、そして最後は長寿世界一として当時ギネスブックに載った慶応元(1865)年生まれの泉重千代(百二十一歳)。
ただこの泉重千代さんについては、その年齢について疑義があると、当時「週刊読売」が報じている。理由の一つは、明治5年に戸籍法が施行される以前は、生年月日は自己申告だったことと、二つ目は泉家には先に早く亡くなった重千代という名前の実子がいて、後に養子に来てその名を継いだ重千代が実子と混同されたのだという。そして調査を進め、実際は明治13(1880)年生まれであり、死亡年齢は百六歳ということになると報じている。2012年にギネスブックから記録を取り消されている。
このような大変な作業を要する本を編纂・執筆した山田風太郎は、四十六歳で亡くなった音楽家シューマンの項にその心境を吐露している。
「彼(シューマン)は、精神及び肉体の力を急激に破壊され、毎日やっていることは、友人ブラームスから贈られた地図から、国や都市の名を拾い出して、アルファベット順に並べることくらいだった。」(この『臨終図鑑』の著者の作業もそれに似たところがないでもない)〈下巻P176下段〉
なお、「九十三歳で死んだ人々」の章は(欠)となっている。取り上げるにふさわしい人がいなかったのか、さらに調べるには時間切れだったのか、どこにも解説がないので不明である。