自然に共感性を養えなかった私と寄り添うのは、努力が必要

私はどうやら、今でも、自分の身体に対して、親身になりきれていない。
「虐待による身体的な痕跡は、極めて少ない。」と少し前に書いたけれど、それは、希望的観測であり、嫌な事は見たくない気持ちと、そんなの大した事ないという共感性の欠落が混ざった発言だった気がする。

かつての私は、自分の身体が疎ましかった。役立たずで、醜くて、痛みの媒介者で、軽蔑すべき人達に汚されるに値すると思っていた。ことあるごとに、肉体などなければいいのにと思っていた。

自分と肉体を切り離し、切り離した肉体を嫌悪し敵視することは、あの環境で生き抜く為には、必要な事だった。そうしなれけば、気が狂うか死ぬか、どちらかだったろうと思う。

私の右側の咬筋は、ぱっと見わからないものの、反対側と比べて著しく発達している。そして、大きく開け閉めすると、カクカクしゃりしゃり鳴る。顎関節症というらしい。トラウマ治療の前、口を開けるたびに痛んだので、歯科医を受診した。歯科医は、夜マウスピースを装着し、徐々に改善するしかない、治すことは難しいと言った。その後、痛みがマシになり、なんとなく通うのはやめた。

ひどい歯ぎしりだったのだと思う。睡眠時の歯ぎしりの負荷は、100kgもの重さになるという(本当?)。
昨年ついに右奥歯が割れ、その下の神経が損傷し、半年にわたる根管治療を受けたのだった。

今では、そこまでの歯ぎしりはしてないのだと思う。口が開かないほど顎が痛むことはもうないし、偏頭痛も治った。

それでも、今も、肥大した咬筋の部分には、うっすら痛いような、だるいような、そんな感覚がある。咬筋には、長年、怒りや不条理を無理やり飲み込んだ悔しさが溜まっているような気がする。

今、大きく育ち過ぎた右側の咬筋を、優しくくるくるとマッサージしていると、自分に対して申し訳ない気持ちが湧いてくる。
保身の為に、自分の身体を大切にしてこなかった卑怯で情け無い自分を思う。

私はいつまで、あの人たちがしたことの後始末をしなくてはならないのだろう、という気持ちになってくる。

痛い時、しんどい時は、よりそんな考えになってしまうのかもしれない。
注射はイヤだとか言ってないで、やっぱりボトックスを打つべきか。この部分を楽にしてあげることを優先するのが、先決なのかもしれない。

共感について、圧倒的に経験値が足りない。
足りないどころか、マイナスを取り返せる気がしない。
自然にそうできる環境に育ってきていない私のような人間は、意図的に、人為的に、訓練するほかないのでしょう。(放棄して、他者を養分にする生き方だけは、もうしたくない。)
たった一人の自分にすら寄り添えないのに、どうやって他者に寄り添えるのだろう。
こういう自己批判もまた、共感性の欠落だなあ、とまた巡る。