【本と食べものと私】粟ぜんざいを食べながら昔の恋愛事情を想う ー 散歩のとき何か食べたくなって 池波正太郎著 ー
寒いし、カフェじゃなくて甘味処でおしるこはどう?ということで、久しぶりに神田の竹むらへ、友人と行った。ここの粟ぜんざいが好きで、たまには別のものを...と思うのに結局いつもこれを頼んでしまう。
題名も含めここまでわざと漢字をつかって「粟ぜんざい」と書いているけど、今回メニューを見て気になったのが「あわぜんざい」とひらがな表記になっていたこと。いつからこうなのか、もしかしたらもうずいぶん前からなのかもしれないけど、以前は「粟ぜんざい」だったと思う。
さては、「くりぜんざい」と誤読する人が多くてとうとうひらがなにした、かな?
「あわ」は今の生活では日常的に登場しなくて知らない人も多いだろうし、ぱっと見、つい「くり」と読んでしまうのは仕方がないのかも。でも粟は粟なんだけどなあ...「あわ」と読めない人は、「あわ」が一体何なのかも知らないのではないだろうか。
そんなことを考えながら桜湯をいただいていると、やがて出てくるほかほかの粟ぜんざい。友人も迷ったあげく、結局おなじものを注文した。もっちりした粟となめらかなこしあんを、一口にちょうどよい量とバランスになるよう(ここ大事。集中!)お箸ですくいとって口に運ぶ。ほっこりとあたたかな甘みが心地よい。
「昔はこういう甘味処は男女のデートにも使われたらしいよ」
と友人に言ってみた。これは池波正太郎さんの本に書かれていたこと。そもそもそれを読んでずっと覚えていたから、上京したときここに来たのだ。東京在住になってからも、ごくたまにだけど近くに来ると寄っている。
「デートって、今のカフェみたいにって意味じゃなくて?」
「うん、なんかいちゃいちゃしたりしてたみたいよ。仕切りがある席があったみたい。甘味処で男女がちゅーしてるような場面を本でみた」
「ええーー?おしるこ飲んで?あっま!!」
「笑。揚げまんじゅうもあるよ」
「うわ、油っこー!笑」
池波正太郎さんの時代小説の場面ということは、江戸時代とかのことなのかな、ラブホとか当然ないしね、でもじゃあなぜ例えば蕎麦屋じゃなくて甘味処?などと話しつつあっという間にお椀はきれいにからっぽになり、揚げまんじゅうを持ち帰り用に包んでもらってお店を出た。充足感。
帰宅して、池波正太郎さんの本を目につくだけ引っ張り出してみる。食のエッセイが何冊もあるから、竹むらのことがどの本に書かれていたのか覚えてないのだ。ぱらぱらとめくってみて、「散歩のとき何か食べたくなって」に「神田・連雀町」という章があるのを見つけた。
なぜ甘味処が男女の場に、と思っていたけど読み返してみると昔はお店によってはお酒も出していたらしい。そして「汁粉屋というものは、男女の逢引にふさわしい風雅な、しゃれた造りでなくてはならぬ」だそうだ。
風雅な、しゃれた造り...素敵。
昔の、今とはかなり違う、人々にとっての甘味処の存在について想像する。その頃のお店をのぞいてみたいな。いや、男女がいちゃいちゃしてるかもしれない場を「のぞいてみたい」という表現はよくないか。笑。
いちゃいちゃの現場はまあいいとして、仕切られていたというお店の造り、内装を見てみたい。普通の席で、私もその一角に座って当時の人々の様子をながめたい。お出かけのためにおしゃれした和服の、若い女の子グループの会話などを聞きながら桜湯を飲んで粟ぜんざいを食べられたらいいのに。
竹むらはネットによると創業1930年ということで、時代小説の現場ほどの昔からあるわけではないけど、昔を想像して楽しむのに十分な趣のあるお店。これからもときどき、通いたい。