人には人のタイミングがある~プラクリティーとヴィクリティー(性質と状態)を分けて考えること
皆と同じペースで同じことを同じクオリティーで進める、ということが苦手だ。
そのため、横並び社会である学校や会社などの集団行動が辛かった。
自分の中でGOが出ていないタイミングなのに、周りの雰囲気やプレッシャーに流されて無理に物事を押し進めても上手くいかない。
人にはそれぞれの人のタイミングというものがある。
もちろん、人に促されたタイミングでもそれが自身にとって心地よければ正解だ。
だが、課題の提出や〆切は仕方ないとしても、社会が決めた年齢やライフサイクルのタイミングに合わせて物事を進めるべき、ということには無理がある。
そして、人と深く接する時には、その人がどのような段階にいるのか、一般論でなく丁寧で個別に観察する必要がある。
たまたま立て込んだ期間にいる人は、忙しい
という性質を持っているわけではないし、
一時的に体調が悪い人は、病気
という性質を持っているということにはならない。
一時的な状態と本来の性質を分けて考え、状態の奥にある性質、物事の本質を見ていくことが大切だ。
なにかの状態に陥っているその瞬間は、自分でも他人でもそれを性質だと思い込む傾向がある。
例えば私は食欲にムラのある性質を持っていて、食べる時期は高校生並みに大食いになることもあるが、食べない時期は老人並みである。
それに以前は気づいておらず、大食いになった、とか少食になった、という表現でその状態を性質の変化だと思い込んでいたが、よく一緒に外食する親友に指摘されてようやくムラのある性質を持っていることに気づいたということがあった。
インドのアーユルヴェーダやサンキャ哲学の考え方では、変わらない質の源や本性、物質的な根本の原質をプラクリティと呼ぶ。
一方で、周囲の環境や季節、年齢、ライフスタイルによって日々刻一刻と変化する心身の状態をヴィクリティと呼ぶ。
プラクリティとヴィクリティを混同してしまうと、必要な対応やケアが出来ないばかりか、事態を悪化させてしまうこともあり得るため、アーユルヴェーダの施術に関してだけでなく、日常の中でもこの考え方を意識し、応用していくことで様々なことをズレがなく円滑に進めていける気がする。
自分についてさえも正確に知ることは大変難しいが、他人については更に分かりづらい。
例えば、親子関係や師弟関係、様々な上下関係でよく見るパターンだが、停滞しているように見えるある人を、勢いのある時期にいる別の人が、叱咤激励して頑張らせようとしても、それがその人のタイミングでなければまったく意味がない。
タイミングが来れば人は自分で主体的に動くもの。来なければ、それはその人の人生にとって必要のないことなのだ。
私も他人から、子どもを産まないことや、正社員をやらないこと、マイホームを建てないことなど、私の年齢なら当然クリアしていて普通と世間一般が考えることに関してあれこれと言われ続けてきた。
だが、それらは世間一般(というか、個人的にはそれを信じる一部だと思う)にとってのタイミングだし、私は少なくとも今はそれらを全然求めていない。
動けない状態や動く必要のない人を、他人がビシバシ叩きグイグイ引っ張ろうとしても無駄であると、横並び社会の価値観を見ていていつも思う。
従順な人や真面目な人ならば、自分にとってのベストなタイミングでなくても外からの圧や期待によって無理して頑張ってしまうだろう。
しかし、それは本人にとって幸せなのかわからない。
休んでいる人は、怠惰な性質(プラクリティ)を持っているわけでなく、単に休養という時期を必要とする状態(ヴィクリティ)なのかもしれない。
受験、就活、結婚、出産・・・
タイミングが来ても来なくても人それぞれ。
正解も不正解もないし、そのタイミングは人それぞれ違って当たり前なのだ。
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