セルフイメージを脱ぎ捨てよう~本当の自分を探し求めて②
前回に引き続き、本当の自分とはなにか、という話をしていきたい。
前回は他人から持たれるイメージについて、また変化について書いてみたが、今回はセルフイメージ(自分が自分をどうとらえているか)について考えてみたい。
私は〇〇だから、というセルフイメージは誰もが持っているものであると思うし、それを持つことは悪いことではない。
ただ、そのセルフイメージは自身にとっての真実とは必ずしも限らないこともある。
そして、他人から見えているイメージとセルフイメージに乖離があったり、見せたいイメージを自分で作り、それを演じている場合などもある。
セルフイメージとはなんとややこしいものなのか。
私の場合、自身に対するセルフイメージは暗い(陰)の要素が強く、地味で地を這うように必死で生きている感じなのだが、意外と友人たちに聞いてみると自分で思っているよりは明るいらしく、アクティブだったり、エネルギーが強く見えるらしい。
ただ、職場など公の場ではあまり自分を出さないし、「私」が主語の話を極力しないので、壁が厚く心を開かない、秘密主義の人に見えるらしい。
中途半端に自分を説明するのが下手でだいたい誤解されるから、それが面倒であまり自分を出さないだけなのであるが。
お陰で日々頭の中で考えていることが溜まるので、自分のペースで好きなことを語れるnoteにたくさん書きたいことが出来るから良いと思っている、というのは余談であるが。
ヨガの哲学では、玉ねぎの皮に例えて、本当の自分の周りを覆っているものを説明することがある。
(ウパニシャッド哲学では、鞘である5つのコーシャという表現で、食物鞘から歓喜鞘を説明しているが、今回はそれとはまた別の例え話)
自分の周りをたまねぎの皮のように覆う、様々な肩書きを取り外してみるとどうなるか。
母や父、妻や夫、娘や息子という家庭での肩書き、
部長や課長、〇〇リーダーや〇〇係など、職場での肩書き、
〇〇歳女性、男性、その他というような生物的な分類による肩書き、
また、住んでいる場所や家、先祖が誰か、預貯金や財産、学歴、職歴、どれだけ高価なブランド品を持っているかなど、自分に付随するように見える属性や持っているのもも取り外してみよう。
髪型、肌、顔のパーツ、身体のそれぞれの部位など、容器としての肉体も取り外してみるとどうなるのだろうか。
それから、性格や性質だと思っているものや、自分の心や感情、外の世界に対して感じる感覚も、いったん脇に置いておきたい。
それら全部、玉ねぎの皮をむくように剥ぎ取ってみたら、そこにはなにが残るだろうか。
そこに残るものは「個の根本原理」で、それは「宇宙の根本原理」と同じものであり、完全な状態ですべてを含むものなのだ。
たった1つだけの真実がそこにあり、見えているものも見えていないものも、世界のすべての可能性を含んだものである。
とても自由で制限のない状態である。
小さいことに捉われて、どうしようもなく辛くなる時、私はこのように玉ねぎの皮を剥いていくイメージをするようにしている。
写真は今回も、2018年に訪れたカリブ海のプエルトリコ。
この旅の件もそのうち丁寧に書いていきたい。