今はまだ煩悩を楽しむ~髪の話
この1年で、知り合いの女性が2人僧侶になった。
そのうちの1人は剃髪もし、美しい坊主頭が定着している。
僧侶が髪を剃り落とすのは、髪が煩悩の象徴だから、とのことであるが、本当に頷ける。
髪=煩悩=欲望(エゴ)なのだ。
虚栄心とも言える。
おそらく多くの人が、無意識ではあるだろうが、外出先のお手洗いなどで鏡を見る時、まずは髪を触る。
オンライン会議でも、なんとなく前髪をいじりながら、自分の容姿を確認している人が多い。
自分の見栄えがダイレクトに表れやすく、少しの変化で大きく印象が変わるのが髪なのである。
朝起きてから、夜寝るまでに、髪の手入れにどれくらい時間と労力をかけ、美容室代やシャンプー代、ヘアケア用品に年間で幾らのお金を費やしているのだろうか。
逆に言うと、気力がない時や人に合わない日に一番に気を抜くのは髪ではないだろうか。
その僧侶になった知り合いの女性は、癖毛で悩んでいた、ということもあり、剃髪してから、これまで自分がいかに髪に様々なコストと時間をかけていたかに気付いて驚いたと言っていた。
そして今は、それらすべてから解放されて清々しいと。
そうか、と思いながら少し自分のことを振り返ってみると、私は小さい頃から髪のアレンジをするのが好きだったことを思い出した。
不器用だからあまり上手くいかなかったけれど、少し髪型を変えるだけで顔の雰囲気が違って見えることが面白いなと思い、自分であれこれと触っていた。
しかし子どものころ、私の母は何故か私が髪を結ぶのが大嫌いで、一生懸命作ったポニーテールを「豚のしっぽ頭はみっともないからやめなさい!!」と恥ずかしさを植え付けてやめさせたりもした。
憧れたロングヘアにもさせてもらえず、ようやく髪を伸ばせたのは中学に入ってからだった。
昔、付き合っていた男性にも、「可愛くないから髪を結ぶのやめて」と言われたことがある。
顔の周りの髪を耳にかけるのも「可愛くない」と言われて嫌がられた。
今となっては、そのような最悪な男となぜ付き合っていたのか、なぜそんな男の言うことを真に受けて、ラーメンを食べる時も、真夏の暑い時も、顔の横に必死に髪を垂らして頑張っていたのか謎すぎるが、とにかくそのようなことがあった。
どちらの場合も愛されたい、見捨てられたくない願望が自己主張を上回ってしまった結果の行動であり、とても有毒な人間関係だったと思う。
自己肯定感の低い人間は、時としてこのような支配に屈してしまうことがある。
母にも最低男にも言い返せなかった私であるが、そのすべてから解放された今は毎日ヘアアレンジを楽しんでいる。
そんなに凝ったことはしないが、夏場は自分の汗で首がかぶれるため、毎日髪をまとめている。
そのまとめ方にはなんとなく自分ルールがあり、連続して同じ髪型にしないようにしている。
クリップを使ったり使わなかったり、三つ編みを入れたり入れなかったり、結ぶ高さや位置、後れ毛の出し方や分け目を変えてみたり。
単に楽しいから、というのもあるし、あまり印象を固定したくない、というのも深層心理にあると思う。
昔から、たまに大胆に髪型を変えるのが好きだった。
突然ボブやショートにしたり、パーマをかけたり、前髪を切ったり。
私の不安定さが出ているように見えるかもしれないが、意外に計画的に定期的なイメチェンをするようにしてきた。イメージが固定しすぎるのは苦手だし、自分の容姿がマンネリ化するのは心地よくないから。
2000年代初頭に10代後半だった私は、本当はがっつり髪を染め、ちゃんとギャルになりたかった。
服はそれなりにギャル寄りだったと思うが、髪色だけは、やはり、厳しい厳しい母という壁を乗り越えることが出来なかった。
幼いころから、「絶対に髪を染めるな」と言われてきた。
よく、周りから「反抗すればよいのに」と言われていたが、親子関係に基本的な信頼関係がなかったため、反抗した瞬間、見捨てられる気がしており、従順な娘を演じていた。
器用な妹はしれっと染めて、母に問い詰められると「染めてない」と嘘をつき通したが、臆病な私はそのようなことも出来ず、ただ悶々としていた。
地毛が明るい方なので、染めている風に見られることも多くてラッキーだったけれど、結局この世代にしては大変珍しく、30過ぎまで髪を染めたことがなかった。
母を含め、元々何年も交流のなかった父や、母が窓口になっていた親族みんなと絶縁したのはその数年前だった。
非常に苦手な存在ではあったが、20歳くらいまでは本能なのか、ずっと、母から認められ、愛されるために努力していた。
顔色を見ながら正解を探り、見捨てられないように、褒めてもらえるように、頑張ってきた。
と同時に自分らしく生きることを諦めたくないから、対立はせずに距離を置くというやり方で自立を保ってきた。
絶縁は母から言われた。
私はダメな存在らしい。
私はただ受け入れた。
存在してごめんなさい。という思いで過ごした年月も長い。
いったい、あの愛されるための努力はなんだったのだろう、とも思った。
私のなにがダメで私の存在がNGなのか、どれほど考えたことか。
今でも、ありのままの姿で親に大切に愛されている人たちを見ると本当に辛くなることも多いが、そんなことで悩むことに時間をかけていたら人生がもったいない。たまにこうして考えるけれど、執着はしたくない。
もう母に怒られることもないと思い、少しだけハイライトを入れるところから始め、私は20年遅れてヘアカラーの世界へ飛び込んだ。
昨年はブリーチにも挑戦した。ポイントカラーだけど。カットの方法と同様、髪色を変えることで印象が違って見え、新しい自分が出てくることが楽しい。
悶々としていた10代の頃の私が喜んでいる。
あの頃の満たされない少女が満足するまで、私はもうちょっと髪で遊び続けようと思う。
そしていつか、もう充分その欲求が満たされたら、私も煩悩を手放すために剃髪してみたい。
俗世間から離れて心を清める期間を人生の中で持ちたいと考えている。
先日、10年以上お世話になっている美容師さんから、「加齢によるうねり」が強くなってきたと言われた。
笑い話として友達にその話をすると、なぜかみんな憤ってくれるが、私は「ふ~ん」と思っただけ。
湿度によってはオイルをつけるとヘアアイロンで巻いたようにくるんとなって、むしろ気に入っている。
うねりがダメで直すべき存在だと、いつ、誰が決めたのだろう。
美容師さんは、うねり対策として、高いシャンプーや、縮毛矯正を勧めたかったのかもしれない。
私は加齢による変化を別に嫌なものとは思っておらず、うねりのような髪質の変化もなんだか楽しいと思っていたから、私のリアクションは意外だったかもしれない。
白髪もどんどん増えている。
白い髪が混ざるのも別にいいやと思っているが、最近はカラートリートメントで白髪の部分だけ、またちょっと違う色に染めたりして遊んでいる。
いろんな色の混ざった私の髪は、生き方の多様性を支持する私の意思表示でもある。
そんな風に、まだ今は、もう少し煩悩を楽しみたい。人間として、自由でいて、実利の伴わないことにも手間隙かけて、時間とお金を使う、無駄を楽しんでいきたい。
最近は夕方になると現れる目のかすみや、声のかすれもあるが、髪だけでなく、肌も体型も、老化の過程に抗わず、そんな自分を面白がりながら慈しんでいきたい。
その時その時に合った自分を煩悩とともに味わいたい。