なるべく何もしないカイゴのススメ
はじめてnoteにnoteします。
兄が出生時の不適切な対応があって障害者、両親は看取る時には二人とも認知症でした。ひょっとしたら私は60年近くカイゴに携わってきた人間かも知れません。
8年前に父が亡くなり、昨年は母が他界しました。まだ年子の兄がいますが家族の介護に関してこの一年間で強く感じたことです。
決して義務ではないカイゴ
民法で『家族の扶養義務』は定められていますが、『家族の介護義務』はありません。
しかし、いったん介護を始めてしまえば途中での放棄は認められません。
誰もがそれまであり得ないものと信じてともに暮らしてきた家族が加齢による認知症や病気・事故による障害を負ってしまって一人で生きていくことが困難になってしまったら、あたりまえのように『支えになろう』と決心するのではないでしょうか。
そして終わりのない介護を続けるうちに身も心も疲れ果ててしまい、挙句の果てには親族での争いになってしまったり、介護者自身が心身を病んでしまう話をよく聞き、私も同様な経験をしました。
何か間違っているのではないかと、違和感を感じながら子供の頃から兄と兄を支える両親を見てきました。そしてその両親を看取ってきたのです。
当たり前の日常が当たり前でなくなった時
このほぼ一年間、昨年初めのインフルエンザから引き続いて『新型コロナウイルス』で当たり前が当たり前でなくなりました。
介護施設・障害者施設の『面会禁止』の日常が当たり前になりました。
それまで最低月に二回、泊りや日帰りで大阪から施設のある愛知まで行っていました。それが行けなくなってしまったのです。
しかし、この『行けなくなってしまった』に胸をなでおろした介護者はさぞ多かったであろうと想像しています。
私のそれまで費やしてきた時間と金の大きさははかり知れません。
仕事での制約もある中、途中抜け出して医師の診察のため新幹線に飛び乗ったことも二度や三度ばかりではありません。
当たり前ではなかった日常が当たり前になりいろいろ考えました。独りよがりの介護・見守りであったことに気づきました。
心身ともに健全な両親であれば、仕事を放り出してまでやっていた私の介護を喜ぶはずがありません。叱られたことでしょう。
長い時間がかかりました、渦中で気付きはなかなか得られないかも知れません。
しかし、時々立ち止まって考えることが必要なんですね。父ならば、母ならば、兄ならば要介護者・要支援者が健全ならばどう考えるかを。
新型コロナウイルスのもたらしたもの
日本国民全員が経験したことの無かった今回のパンデミックで不幸にも亡くなった方も感染されて今なおご苦労されている方もいらっしゃるでしょうが、私は悪いことばかりではなかったと思っています。
ずっと会えなかった兄の顔を一年ぶりに見てきましたが何も変わらないマイペースの兄がいました。
そこで生まれたのは、『なーんだ。』という感慨でした。
施設に慣れた兄にはもうそこに兄の居場所があり、自分の世界で生きているのです。
ご自宅での介護とは違うかも知れません。
兄の場合、施設入所して介護のプロたちに囲まれて何の心配もなかったのです。長い道のりでしたがこれならば私もこの先気楽に生きていくことが出来ます。
多くの介護離職者の出る日本で必要なのは、生産労働人口にいる私たちが介護のプロに任せて仕事に専念することを当たり前とする考え方を根付かせることなのではないかと思ったりしています。
初めてのnoteは『新型コロナウイルス』が私の『カイゴ』の考え方を変えてくれた話でした。
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