ポカリの新CMについて思ったこと
4月9日にポカリスエットの新CM『でも君が見えた編』が公開されました。
ポカリスエットのCMは、高校生が学校を舞台にダンスをするというCMが記憶に新しいですが、「青春」をテーマに、規模感のある、そして、CMにもかかわらず商品の説明を一切しないなど、CMというより一つの映像作品に近いものが多いですね。そしてそれらは毎回刷新されるたびに情報番組やSNSなどでしばしば話題にのぼりますが、今回作られた新たなCMも、公開されてまもなくTwitterでトレンドに上がっており、話題となっています。
このノートは、その新たに公開されたポカリのCMについて書くものですが、まだCMを見てないという方は、上に動画のリンクを貼ったので観ていただければと思います。(CMはもっとも長いバージョンで60秒しかないので、すぐに観終わります!)
学校の廊下を画面奥に向かってぞろぞろと歩いていく学生たち。この学生たちは全員がペアを組むかたちで談笑したり声をかけていたりしていますが、画面中央にいるヒロイン(彼女は新CMに際して400人のオーディションから選ばれた中島セナさんという方だそうです)は一人で歩いています。やがて、彼女が振り返ると、学生たちの流れとは反対方向へと駆け出します。波状に歪む廊下、切り刻まれたようにバラバラな壁、廊下に舞うプリントからわかる彼女への逆風。やがて、彼女を正面から映していたカメラが彼女の背後に周り、彼女が扉を開けて中庭の藤棚を駆け抜けると、やがて風向きは追い風に変わる。「君」が「見えた」彼女は、そのまま「君」とともに駆け抜けていく。
このCMを監督された柳沢翔さんは、CMのコンセプトとして、クリエーティブチームからヒロインが「アゲインスト」することをやりたいという話があったと語っています。皆と同じ方向へ歩いていたヒロインが、それとは逆方向へと全速力で駆け出し、「見えた君」とともにそのまま駆け抜けていくというCMの構図は、たしかに「アゲインスト」性を明確に表明しています。この場合、「アゲインスト」はヒロインが走る学校の廊下と藤棚の道という直線を基準として、人とは正反対の方向へと進んでいくという意味での「アゲインスト」でしょう。このCMにおいて登場人物は学生で、学校を舞台にしているわけですが、特に学校という環境下では、大多数の人が自発的に、あるいは無自覚に従っているような、いわば「こうあるべき」というルールや規範があるものです。しかしながら、そのルールや規範に自分を合わせると自分が自分でなくなってしまう、それに従わなくてもいいじゃないかと、人の流れに逆らって自分らしく生きてみようと、ヒロインの疾走からはそんなメッセージさえも感じ取れます。その同調圧力やルールに逆らって逆走することはすんなり行くものではなく、それはヒロインに向かって吹く逆風が表しています。
冒頭で少し話したように、ここ最近のポカリスエットのCMは、学生が一眼となって協力するかたちで何かを表現するものでした。CMと定義していいものかは分かりませんが、大塚製薬の公式YouTubeチャンネル内にはポカリスエットに関連した動画の再生リストがあり、そこには高校生がダンスを踊っている動画があります。当然、ダンスをテーマに据えたその動画のなかでダンスを踊らないという選択をしている学生はいないのですが、現実にはみんなの輪に入りたくても入れない人や、そもそも入りたいと思っていない人だっていていいわけです。連帯してなにか一つのことを成し遂げることの輝かしさとともに存在するある種の暴力性に、ケリをつけるかたちで今回の「アゲインスト」を一つのテーマとした新CMは、そうした輪に入れない/入りたくない人びとの背中を押すようなCMになっているのではないでしょうか。
ここからは余談なのですが、このCMには相反する2つの方向というだけの「アゲインスト」以外の、別の「アゲインスト」が描かれてもいると思うのです。X軸方向に対してY軸方向に「アゲインスト」する、東西に対して南北に「アゲインスト」して見せるような「アゲインスト」が。
ヒロインが他の生徒たちの流れと反対へと駆け出し、廊下から藤棚に抜ける直前、カメラのアングルがちょうど切り替わるタイミングで、放送室でダンスをしている男女2人が映り込みます。CMに登場する人物は、全員が廊下から始まって、藤棚、そして体育館へと続いていく直線上にいるのですが、この二人だけは、その直線から外れた教室の中にいるのです。最初に登場する、どこかへ移動している学生たちは、監督の柳沢さんが「高校生にどう響く表現にするかを考えた時に、すごく些細なこと、例えば「一緒に帰ろう」と友だちに伝えるためだけに逆走していくのは、身近に感じてもらえるのでは?と思」ったと語っているように、彼らもまたそれぞれに下校していたのか、あるいは単に、別の教室へと授業か何かで移動しているのかもしれません。そしてヒロインが最後に行き着く体育館にもまた、別の学生たちが集まっています。このいずれの輪にも加わっていない教室の2人。この男女が恋人なのか友人なのか、愛を表現しているのか、テストが終わって嬉しいのか、この一瞬では判断がつかないですし、名付け得ないとは思いますが、いずれにしてもこの2人は楽しげに身体を激しく動かしてダンスをしています。この2人もまた、多くの学生に対して「アゲインスト」しているとは考えられないでしょうか。
人がいない放送室に存在する2人、その空間は既に2人だけの空間であり、それは大勢の学生の「空気」や視線を気にする必要のない空間。ある意味で、そこはアナーキーな空間であり、2人が秩序立てている空間であり、大勢の学生から発せられる気体によって窒息することのない空間でもあります。主人公に吹く逆風は、その空間においては逆風としては感じられず、それは扉を開けていることによって入ってくる風、言わば換気になりうるのです。学生たちが流れる/流される規範という枠組を逆走するヒロインに対して、その枠組からも離れて、彼らは彼らなりに彼らだけの空間を思い切り楽しんでいます。教室に他に学生がいては不可能な自由を、ここで彼らは全うしている、これも一つの「アゲインスト」として解釈することも可能なのではないでしょうか。
もちろん、このようにCMを解釈することで、全力で逆走するヒロインの価値が貶められるわけではありません。むしろ、彼女が学生の流れに合わせて歩いていたら決して彼らの姿を目にすることはなかったのですから。彼女がルールという流れにのまれずに自分らしさを信じて逆走したからこそ、CMを目にするわれわれも自分らしく生きていいのだという勇気をもらえると同時に、そもそも流れから自らを外して、その流れそのものを「アゲインスト」してみせる生き方だってあっていいのだと気付かされるわけです。
ポカリスエットのウェブサイト上には、今回のCMについてのコンセプトや裏話などを載せた特設ページがあるのですが、そこではCMで使われた美術セットについても説明がされています。ヒロインが走る廊下や藤棚の道、ヒロインが藤棚へ飛び出す際に開ける扉など、CMに直接関わる箇所がフィーチャーされるのは当然として、そこではCM中わずかしか映らない、彼らがいた放送室にも触れられています。CMの本筋とはまるで関係のない場所ですが、CMの美術チームがおそらく廊下や藤棚、扉とおなじくらい工夫を凝らして制作したのかもしれない放送室。そのヘテロトピア的な空間は、ヒロインによって意図せずわれわれの目に飛び込んでくるのです。これは、根拠のない、ただのこじつけかもしれません。「でも」確かに、ヒロインが逆向きに疾走したことによって、わたしには「君」も、そして「君たち」も「見えた」のですから。
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