映画『関心領域』と哲学者ハンナ・アーレント
こんにちは。
ソフィーの三浦友美です。
映画『関心領域』(原題:”The Zone of Interest”)を観てきました。
とても話題になっている映画のようで、長岡校のクラスでお話したら、何人かの方がご存知でした。
他の映画を観るつもりでチケット予約をしようとしていたら、この映画の紹介が目に止まり、翌日のレイトショーを予約。寝る前の時間帯にこうしたテーマの映画を観るのはどうだろうと思いながらも、休日前なのでむしろいいかと思い、映画館に向かいました。
家族が健康で、よい家に住み、庭の手入れをして、たまに贅沢をして。
仕事では生産性を高め、効率を上げ、認められて、昇進を望む。
これらは幸せや喜びの基準としてよくあるふつうのもの。
それがアウシュビッツという職場で働き、アウシュビッツの壁一つ隔てた家に住んでいるとしたら。
ストーリーも、映像や音響などのアートという点でも、これまで観たことのある映画とは違う感覚。多くは説明されず、示されたものをもう一度自分の中でつなげ合わせながら、感じたり考えたりすることが必要な映画でした。
この映画に関連して、クラスで、”A Little History of Philosophy” で学んだハンナ・アーレント の『エルサレムのアイヒマン』に似ている、という話になりました。
アドルフ・アイヒマンはナチス時代、アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わった人で、第二次大戦後、アルゼンチンで逃亡生活を送りますが、イスラエルの秘密警察に見つかり、裁判のためにイスラエルに移送されます。
ハンナ・アーレントは、ナチスの全体主義国家が生んだものが何かまた、なぜアイヒマンがあんなひどいことを行えたのかを知りたいと思い、アイヒマン裁判の記事を書きました。
裁判でのアイヒマンは、残虐なナチ党員というイメージとは全く異なり、役人として、疑問を持たずに規則に従い、効率的に仕事を行い、一人の官僚として国に貢献した普通の人だった。
ハンナ・アーレントのこの表現に、当時の世界は大きな衝撃を受けました。アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送の責任者が、普通の人であるわけがないからです。
しかしこの、極めて普通であるという「悪の陳腐さ」が、見るからに冷酷であることよりも恐ろしいこと、そしてそれがナチスドイツの時代に起こった悲劇だったのでした。
残虐な歴史を、私達はどこか特殊な出来事、特別な時代だと見ているかもしれません。
しかし当時その時代に生きていた人たちにとっては、それが日常であり、普通のこと、そして場合によっては正しいことだったりするのです。
『エルサレムのアイヒマン』を発表したハンナ・アーレントは、ナチスの犯罪を擁護しているとして、激しい非難を浴び、ユダヤ人の友人たちもアーレントから離れ、勤めていた大学からは辞職勧告を受けることになります。
映画『ハンナ・アーレント』の最後の場面では、誤解を解き、きちんと説明がしたいとアーレントが大学で特別講義を行います。「思考をやめたとき、人間は簡単に残虐な行為を行う。思考をやめるということは、人間であることを拒絶すること。私が望むのは考えることで人間が強くなることだ。」
思考することこそが人として生きることだ、というアーレントの言葉は現在の私たちにも投げかけられている気がします。
映画に関連して、と生徒さんから教えていただいたポッドキャスト。こちらも聴きごたえがありました。
🐾こちらの記事でご紹介した洋書テキストの講義紹介ページ 🐾