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アウシュヴィッツの図書係

文学は、真夜中、荒野の真っ只中で擦るマッチと同じだ。マッチ1本ではとうてい明るくならないが、1本のマッチは、周りにどれだけの闇があるのかを私たちに気づかせてくれる。 

ウィリアム・フォークナー





何か本が読みたいな。

気軽に本屋さんに行く。
膨大な本から、好奇心にあわせて好きな本を選ぶ。

通勤時間、休み時間、寝る前にも少し。
楽しみながら読み進める。



行ったことのなかった世界で遊ぶ。
ページを開くだけで、はるか昔に生きた人にも会える。
自分にはなかった考え方に触れる。

そんなことを全部可能にしてくれるのが、本。


友達に、なんでそんなに本を読むの?と聞かれたら、

ただただ、おもしろいからだよ、と答える。
映画を見るのと一緒。娯楽だよ。




私が何を読もうとしても、

そんなものを読んではいけない

と言ってくる人は、周りにはいない。



けれども、かつてそれが許されなかった時代があった。
命懸けで本を守って、そこに救いと希望を見出していた人たちがいた。




この読むことが自由な今に、興味と、知る勇気を持てば、本はそういう時代にも連れて行ってくれる。




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アウシュヴィッツの図書係

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この本はカラマーゾフの兄弟の次に読んだ本です。
戦時中のドイツのことを知るのは、私にとって強い興味の対象なのですが、アウシュヴィッツに関する本はそれまで読んだことがありませんでした。

聞くだけで恐怖を連想する場所の名に、図書係という本好きにとっては、興味をそそらずにはいられない単語がくっついている。
一体どういう本だろうと、好奇心が抑えきれずに、手に取ってみました。


奇しくも、一つ前の記事で紹介したカラマーゾフの兄弟に関連する内容も出てきて。
全く関係ないような2冊だけど、私にとっては、問と解の対になっているような本です。









概要

このお話はアウシュヴィッツに収容されていた人の証言を元に作られた物語です。
ほぼ実話と考えて良いと思います。
登場人物も名前は少し変更されていますが、ほとんどが実在の人物です。



アウシュヴィッツに収容されると人は二つの道に選別されます。
死か、労働です。
働けないものは殺され、働けるものは死ぬまで強制労働を強いられます。

そんな残酷な収容所内には三十一号棟という、どちらの道にも属さない家族収容所があります。ここでは、主に子どもたちと、その面倒を見る一握りの大人たちが過ごしています。

この施設は、国際機関の視察があった時に備えて作られた施設です。
視察がきても、ここの様子を見せれば問題はないとして、虐殺行為を隠すことができると考えられていました。




三十一号棟では、ナチスの目につかないところで、秘密裏に子どもたちに教育を行っていました。

ユダヤ人のリーダーはフレディ・ヒルシュという人物。(実在の人物)
黒板はおろか、鉛筆や紙すら貴重品という世界の中で、何人かの大人が先生となり、子どもたちに世界の歴史や、計算を教えていました。


そして、その教育の一端を担うのが、アウシュヴィッツに隠された秘密の図書館にある、八冊の本です。
主人公の少女、ディタはその八冊の本を管理する役目を担っていました。


ボロボロの本を修繕し、管理し、一日の終わりに先生たちから回収して、元の隠し場所に戻すのが仕事。

たった八冊であっても立派な図書館であり、アウシュヴィッツという場所においては、それは命がけの仕事です。




なぜなら、本を所有することは死刑に値するから。
言論の自由が抑圧されている世の中。
ましてやユダヤ人である彼らが知識と思想の象徴である本を持つなんて、許されることではなかったのです。








この本が教えてくれること


この本の魅力は二つあります。


一つ目は、どんな絶望の中でも希望を持って生き抜くことの大切さを教えてくれるところです。生きるとは、どういうことなのか。




収容所での生活は本当に悲惨を極めています。
毎日が鬱屈としていて、悲しみに満ちています。かなり細かく丁寧に一人一人の想いが描かれていて、日常が壊され、自由が奪われていく辛さがひしひしと伝わってきます。

ディタは早々に子ども時代に別れを告げて、大人にならなければいけませんでした。
好きな洋服も着れず、ケーキの味も忘れてしまいました。




いつか殺されるかもしれない子どもたちに、算数や地理や国語を教えることに何の意味があるのか。
みんな明日にでもガス室送りになって、死んでしまうかもしれないのに。
全てが無意味に思えてくる絶望感。
読んだ後は、話の全体に満ちている悲惨さと悲しさでなかなか余韻から帰って来られないくらいでした。





しかし、そんな中でもリーダーのヒルシュは人々を励まします。

とにかく希望を持つことだ。
子どもたちは僕たちの希望だ。
この収容所の中で、できる限りの日常を保ち、維持すること。
一日、一日を生き抜くことが、一つの勝利なのだ。

人はパンのみにて生きるにあらず。
人にとって大切なのは希望を持って生きることだ。



ここの部分、多分カラマーゾフの兄弟を読んでいなかったら、なぜパンなのかわからなかったと思うんです。


イワンが投げて、ヒルシュが打った!
スポーツ観戦をしているような気分でした。
(わけがわからない人は一つ前の記事を読んでください。)


ナチスに生活を支配されるということは、権威に生活を支配されることと同義です。上に立つ存在を人間は希求し、パンを求めてしまうかもしれないけれど、その権威である存在が、必ずしも善であるとは限らない。


悪意を持って立ちはだかる権威に、最後の最後で打ち勝つのは、心で屈しないこと。
精神的に自由で強くいることなのかもしれません。


その術は、自分が物事をどう捉えるかにかかっている。


ただあなたの神に仕えよ

の神とは、崇めるべき対象ではなくて、自分自身。自分の中にある信念を貫くことなのではないかと…。
それこそが人間が生きるべき道なのかもしれない。


ユダヤ教とキリスト教の違いはよくわかっていないし、うまく言葉にできないけれど、自分なりにとても考えさせられました。



こんな極限状態でこれを言ってのけるヒルシュさん、ものすごく強い人だったんだろうな。






2つ目は、本の尊さを教えてくれるところです。


戦争の悲惨さを訴える話は沢山ありますが、この点が他の話とは一線を画するところだと思います。

今を生きる私たちには、本が危険物になるという感覚がわかりません。
エンターテイメントとして、現実逃避として捉えていることがほとんどだし、知識を吸収するための本として捉えているとしても、それが禁止されるかもしれないという恐怖を感じた事はありません。


けれども、独裁国家などの言論の自由が許されない世界においては、本はとても危険なものになり得ます。
なぜなら、人にものを考えることを促すからです。


前に紹介したジョジョ・ラビットという映画でも、大量の本をキャンプファイヤーみたいにして燃やすシーンがありますが、多くの本がナチス政権下では問題視され、破棄されていたようです。


本を開くことで、人はどこにでも行くことができる。
日常を忘れることができる。
どんな靴よりも、檻の中の私を遠いところまで連れて行ってくれる。


閉鎖され、自由を奪われた人々にとって、たった8冊の本がどんなに現実を忘れさせてくれる存在であったか。
希望の存在であったかがじわじわと伝わってきます。

今の私にとっても、読書は現実逃避の役割を持っているけれど、こういう背景に立ってその効果を眺めると、ありがたみや尊さが、全く違う重みをもって実感できます。


たくさんの知識や物語の扉が開いている事は、実はすごい事なのかもしれません。
読書ってこんなにも、貴重なことだったんだと見る目がかわりました。





心から、読めてよかった本でした。

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