【基礎教養部】足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想
本記事は、コミュニティメンバーのあんまんさんの800字書評及びnote記事を元に書かれています。その為、以下の記事を読まれると本記事の内容がより掴みやすくなるかもしれません。
あんまんさんの記事は以下の通りです。
最近追加note記事で本の中身を論じている事が少ないが、今回も例に漏れず本書のとある特色のみを抜き出して自らの意見等を展開することを試みる。
あなたは、「随筆」といえばどのような文章を思い浮かべるだろうか?向田邦子の『父の詫び状』のように国語の教科書に載っているような現代の作品や、最も有名な古典の一つである『枕草子』など、時代という垣根を超えて随筆の名作を挙げることができる。もうすでに随筆とはなんぞやということを知っている人もいると思うが、ここで改めてその定義を確認しておこう。
コトバンクから定義をそのまま引用すると、随筆とは
「 特定の形式を持たず、見聞、経験、感想などを筆にまかせて書きしるした文章。」
であるという。ここで大事な要素は特定の形式・制約を持たないという事、つまり非常に自由度の高い文章であるという事である。随筆はその高い自由度から時代・時間を超えて書かれ、親しまれて続けてきたのだ。
さて、本書の筆者である入不二基義氏は著名な哲学者である。当然この本においても哲学が営まれている訳だが、一般に哲学書はかなり形式が限定されてしまいがちである。その中でも本著は筆者が目指していたように、特定の形式に縛られず自由な形式で哲学の話の展開を成功させているといえる。
ここで頭に浮かぶのは、案外哲学と随筆の相性が良いのではないかという疑問だ。哲学というと、ひどく難解な問題を取り扱っているために私たちの日常生活と大きな乖離があるのではないかと考えてしまいがちだ。しかし、哲学自体の種は日常生活の中に無数に存在している。その種をひたすらに突き詰めて考えていくことこそが哲学という営みなのだから、哲学のはじまりは自らの経験や意見などの身近な所に存在しているはずである。つまり、哲学と日常は切り離す事ができないはずなのだ。ただ、哲学と日常生活は必要とされる思考の速度が大きく異なる。普段の生活は暫定的に最適と思われる選択の連続であり、日常のあらゆる行動を哲学する速度で行なっていると全く何もできなくなってしまうだろう。
そこで、日常で見える範囲を哲学の速度に落とし込む方法として書き言葉が存在する。その意味で、特定の形式を持たない随筆は哲学と日常とを結ぶのではないだろうか。
随筆と対極にあるであろう形式の論文についても軽く触れておこうと思う。特定の形式を持たない随筆に比べ、論文は特定の形式を遵守しなければならない。また、形式だけでは無く文章の書き方にも制約が加わる。当然その中身にも意味を求められるのだ。論文は他社による査読を行ない新規性を確かめるという性質上、一つでも意味の不明瞭な部分があってはいけない。公的な研究機関に在籍する研究者は論文を書かなければならないので、意識をしたとしても論文のスタイルを100パーセント無視することは難しいだろう。だからこそ哲学の研究者である入不二氏が本書で随筆の形式をとったのは非常に良い試みかつ面白い。
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ここまでで随筆について自分の思うことをつらつらと書いてきたが、個人的に随筆の作品を読むことは少ない。ましてや随筆作品を書くことは全くかなわない。随筆は筆者の体験を取り留めなく書かれていることが多く個人的に苦手なジャンルと感じていた。ただ、本書の文章からは筆者が心の底から書きたいことを書いているを感じ取れた。あんまんさん、西住さん共に同じような感想を持っていることには非常に納得できた。
もう一つ面白いかった点として挙げておきたいのは、自分自身は哲学と随筆の相性が良いのではないかと感じたのに対し、西住さんが「哲学と随筆の相性が悪いと感じた」と記していた点である。(西住さんの記事は以下になります。)
感覚の違いと言ってしまえば一言で終わってしまう話ではあるが、今回自分が「随筆という形式に筆者の前のめりな姿勢が必要なのではないか」と考えた事に要因がありそうである。いずれにせよ、同じ本を読み正反対の感想を抱くという現象は面白い。
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