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世界中でセンセーションを巻き起こしたラストサムライ「滝善三郎(たきぜんざぶろう)」1
先日、岡山県北区にある「七曲神社」に行ってきました。
そこには「神戸事件」で世界的に注目された岡山のラストサムライ「滝善三郎正信君義烈碑」があります。
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◎滝善三郎とは?
滝善三郎は、天保8年(1837年)この金川の地(備前岡山藩)に生まれました。槍と大砲のあつかいが得意な武士でした。
◎どんな時代だった?
最後の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還(国の運営を天皇へお返しする)し、明治時代が始まる直前の時代です。長い鎖国が終わり色んな外国が日本を狙って来ていました。
◎神戸事件とは?
ときは慶応4年(1868年)1月、徳川方と新政府の間で戊辰戦争が起こってしまいました。そこで新政府側だった備前岡山藩は徳川方に対抗するため2000人の藩兵を率いて神戸の警備を命じられました。隊列が神戸三宮神社の近くに来た時、フランス人の水兵が行列を横切ろうとしました。
侍の行列を横切るのは、日本ではとても無礼な行為だったので、滝善三郎がこれを止めました。しかし、水兵が全く言うことを聞かず争いになり、得意の槍で水兵を追い払いました。
ところが逃げた水兵たちが鉄砲を持ってきたので、撃ち合いになりました。これがきっかけでちょうど神戸開港に居あわせたイギリス・アメリカなども怒り、外交問題になってしまいました。
◎その後
けが人は出たものの、どちらにも死者は出ませんでしたが、諸外国によって神戸は軍事占拠されたり、神戸港にいた他の藩の船までもが捕まえられてしまいました。
諸外国側は関係者の厳しい処罰を要求してきました。それは滝善三郎を処刑しろというものでした。
このままでは、諸外国と日本の戦争になってしまうと考えた滝善三郎は、潔くこの神戸事件の全責任を一人で背負い、慶応4年2月9日(1868年3月2日)、のちの初代総理大臣伊藤博文(伊藤俊介)や諸外国の関係者が見守る中で見事な切腹をして果てました。
◎滝善三郎!世界中でセンセーションを巻き起こす
この滝善三郎の見事な切腹により、諸外国の関係者も舌を巻き、神戸事件は無事解決しました。
この滝の切腹に立ち会ったイギリスの外交官ミットフォードが、イギリス本国に詳細を伝え、イギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が銅版画付きで報じ、大きな話題となりました。
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この滝の武士道精神は世界中を駆け巡り、さらに世界的ベストセラー新渡戸稲造の「武士道」でも取り上げられ、いまだに世界の人々の記憶に残り続けています。
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まさに岡山が誇る、というより日本を代表するラストサムライですね!!
次は滝善三郎さんの足跡をたどっちゃうぞ!
貴重なデータとか、お墓参りマニアのそれがしが、岡山県下No. 1のロマンティック肝試しを紹介しちゃうぞ!