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皐月

小学校2年生の時の担任の先生は、専門が国語だった。
春の七草、秋の七草、なんかの冒頭文、1週間ごとくらいにさまざまな日本語の文を後ろの黒板に書いてくれた。
それを覚えて、先生に言いに行くと、シールがもらえたり、黒板に名前を載せてもらえたりして、自己顕示欲に溢れていた私は、それはもう毎回一生懸命名前を載せてもらっていた。

自宅のトイレにかけてあったカレンダー、一月毎に名前が小さく書いてあるのに気がついた。
そういえば毎日大安とか、名前があるのも不思議だったけれど。

確かおばあちゃんに、この月の名前はなんなんだ、と尋ねた気がする。
先生は実はおばあちゃんの教え子だったらしいということもあって、後ろ黒板の文に提案してみては、と提案された。

それはいいね!と言ってもらえて、睦月から師走までの12の文字列が、スラスラと黒板にのった。
自分が提案したのだから、と張り切って、クラスで1番最初に名前を載せてもらった気がする。

それが役に立ったのは、高校に入ってから、古文の勉強の最中に知らないやつは覚えとけよーなんて、言われて、フン、と得意気になったくらいだった。
大したことはないのだけれど。

皐月、という文字を見て、ある女の子を思い出す。
2年までなんとなく通っていたスイミングスクールで出会った女の子の名前。
入ってきた時、不安だったのか涙を流していて、大丈夫だよ今日から友達ね、なんて小学生らしく友達になった。

スイミングスクールで出会った子達は、それもまた高校生くらいになって、中学の時の先輩の大親友だったり、私の親友の友達だったりして、私はとても驚いて舞い上がったのだけれど、どちらも私のことは覚えていなかった。


保育園の時、一定の時期仲が良かったと思っていた女の子がいて、その子はすぐに転園してしまったのだけれど、時が経ってからこんなこいたよね?○○ちゃんって名前だったと思うんだけど、と当時の友達や両親に聞いても、そんな子いなかったよ、と言われた。
高校生になって、少し離れたクラスで目立つ女の子になんだか見覚えがあった。
彼女はあだ名で呼ばれていて、私はてっきりあだ名が本名だと思っていたので、しばらくは気付かなかったのだけれど、ある時本名に気づいて、彼女が保育園の行方不明の女の子だったと判明した。
彼女と話せる機会があって、通っていた保育園の名前を聞くと、ビンゴ、私が通っていた保育園の名前だった。
しかし彼女は私のことをやはり覚えていなかった。
私は彼女がクラスでたったふたり、女の子なのにミニーじゃなくてミッキーを選んでいたうちの1人だという事も覚えていたのに。

ちなみにもう1人は当時から1番のディズニー好きだったけれど、今もディズニーが大好きで、きっと年パスを持っていて、今日もディズニーに行ってミッキーと写真を撮っていた。

Dオタだった女の子は知り合いにもう1人いて、私は彼女にシングルライダーというものを教えてもらった。
友達6人でディズニーに行った時、時間がなかったので全員でシングルライダーの列に並んで、2人だったり1人だったり3人だったりで、乗車した。

私もディズニーは結構好きな方だった。
小学校の時読んだ、ディズニーの神様シリーズ、それがとっても好きだった。
印象深いのは、障害を持つ男の子、確か車椅子に乗っている子のお話。
ディズニーのキャストさんが、彼が健康かつ安全に最高に楽しめるような最適なプランを考えてガイドするお話。
プランの最後に、イッツアスモールワールドに乗る。
最後に、日本人も、インド人も、アメリカ人も、みんな、全員が白い服を着て、一緒に踊って、歌っているシーン。
これはどんな人も、平等、小さな世界にみんなで住んでいることを示しているのだよ、と伝えてあげる物語だった。
当時から私はイッツアスモールワールドが大好きだったので、さらに大好き度が増したのを覚えている。
少し経ったあと、このシリーズは学校の図書館に置かれるようになった。
家にたくさんあるのに、わざわざ借りてきて、何度も読み返したり、した。

小学校の図書室は、二つの校舎をつなぐL字型の曲がる部分に位置していた。
3,5年生の校舎に行くのには、必ず通らなくてはならなかった。
私はあまり図書室を利用することはなかったのだけれど、移動教室などで全員で校舎を行ったり来たりする時、図書室を通る時に変わる上履きと床の擦れる音が好きだった。
小学校6年生の時、軽いいじめ?ハブみたいなものにあっていた。
それは私の性格の悪さからだったので仕方がなかったのだけれど、当時仲良くしてくれていた友達まで3軍と言われてしまったのが、悲しかった。
当時、35歳の高校生というドラマが放映されていて、相手側はそれの影響を受けたらしく、遊び半分でふざけながら1軍、2軍、3軍を決めたらしかった。
特に大きな損害を受けるようなことはされていなかったのだけれど、かなりダメージを負っていた私はよく、中休みや昼休みに図書室に逃げ込んでいた。
それは本を読むためではなく、友達がいるからだった。
仲良くしてくれていた友達2人とも、図書委員だった。
2人も当然のように勝手に3軍に入れられていて、本人達もそれは知っていたのだと思うのだけれど、図書室に逃げ込む私を、優しく迎え入れてくれて、ここにいていいよといつも言ってくれた。
今でも大切な友達だ。
おそらく2人ともこんなことは覚えていない。

そういえば当時、確か2人と一緒に図書委員をしていた男の子が、私のことを好きだった、らしい。
それは確か、中2くらいで告白されたのだけれど、彼は軍で言えば1軍、いじめ的には加害者側にいたので、少々不思議な気持ちになった。
また彼とは、中学でも色々あって、私は彼が学年で唯一本当に怖い存在だったので、クラスが離れてからはなるべく関わらないようにしていたのだけれど、卒業する時にはなぜか改心して、卒業パーティーの主催すらやっていた。
今思えば、彼には彼なりの事情があって、乱れ、壊れ、それを誰かにぶつけて脅かすことで発散して生きていたのだと思う。
彼がセカオワを好きだったこと、当時は彼が好きだというだけで苦手だったのだけれど、今なら分かる気がする。
成人式には、いなかった。
正直ここに文章を書くのでさえ少し怖いけれど、どこかでなんとかして楽しく生きているんだろうか。
正しく生きていてほしいと願うばかりだ。

私の通っていた小学校は取り壊されてしまうらしい。
先日、地元に住んでいる先輩や後輩が、最後の観覧可能日に小学校を訪れたストーリーをあげていた。
全くそんなことは知らなかったので、とても切ない気持ちになった。
新しい校舎ができるし、小学校の名前も中学校の名前も、おまけに制服まで、変わってしまうらしい。
私は中学1年生の時、古い体育館で入学し、新しくて大きくてピカピカの体育館で卒業した。
改築案が進んでいる中だったので、中学時代にプールの授業がなくて、焼けなくていいと喜んでいた。
私の通っていた保育園は近くの幼稚園と合併して、名前を失い、園舎はリフォームされてカフェかなんかになった。
保育園に入園した時は、これまたもっと古い園舎で、おまるにまたがっていた記憶がある。
今は公園になっている。

場所は変わっていって、消えてゆくように感じるけれど、私は割と記憶が鮮明に残る方らしくて、頭の中にたくさんの映像や言葉が詰まっている。
とても幸せなことだ。
私が母になって、地元に帰ったら、事細かにこんなことを説明するんだろうな。


なんの話題も決めずに、思いつくまま、連想されるまま、文章を適当に書いてみた。

地元に帰ろう、と思った。

暖かくて胸が苦しい、夜。
明日も頑張って生きよ。

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