解剖学は絶対的なものではない
上から目線で恐縮なのですが、機能解剖学を学び始めた方へお伝えしたいなあと思うことがあります。
あらゆる学問に共通して言えることでもありますが、本に文字で書かれてあることは「動かない真実」のように錯覚しがちです。
しかし、特に生体のような流動的なものを対象としている場合には「あらゆる情報は参考」という視点も持っておくことが大事です。
解剖学は絶対的なものではありません。
解剖学: anatomyは西洋の学問です。
「ナントカ筋」と名称を覚えていきますが、それは特定の一地域・一文化の考え方、「ある視点」に過ぎないのです。
東洋医学では「経路」など、また全く異なる名称や部位の単位で身体を捉えていきます。
他にもきっといろいろな文化・考え方があるでしょう。
様々な文化・学問と同様、西洋医療、西洋解剖学は全てを包括しているわけではなく、とある偏った考え方とも言えるのです。
機能解剖を本で学び、骨格・筋肉をひたすらパーツとして捉えていると、実体の生体動作とはズレが生じることも多いです。
ただ「じゃあ勉強しなくていい」というわけではないです。
西洋解剖学が良いのは、各部位にひたすら名前をつけているので、それを覚えることでその部位の位置情報を知ることができます。
まずは名前と位置を知ることで各部位を認識し、認識したところで操作するという段階に入れます。
身体操作については東洋医学の「流れ(経路)」という考え方の方が、実体に近いのかもしれません。
西洋解剖学を知っていくと「あー西洋だねー」とよく思います。
学問はその土地の文化の上に形成されていくもので、思想が反映されます。
西洋思想については専門外ですが、わたしなりの適当ざっくり解釈をお話しします。
ギリシア哲学に「イデア」という考え方があり、英語の”ideal”(理想、極致、至高)などの語源になっている言葉です。
西洋思想って、こういう「絶対的、理想的な究極の何かがどっかにある」という考え方になりがちなんですよね。
一神教もそのような思想から生まれているのだと思いますが、これだけ色んな人間がいるのに、人々の神がたった1つなわけありません。
「絶対的なものはたった1つ」という考え方は、様々なものがぐちゃぐちゃと混在する現実とはどうしても矛盾が生じます。
解剖学も、土着していて無意識レベルでも、そのような思想の土台の上に発展してきた学問です。
考え方が断定的になってしまいがちです。
「各部位に名前をつけることは良いけれど、解剖学的に説明された動きや機能などは、時に実体にそのまんま反映されるものでもない」という留意も大切。
(また西洋医学の手術や薬の処方は素晴らしいものですが、人間は各パーツを組み立てた工業規格製品ではなく、直接的な手段のあまりに人体を壊してしまう場合もあります。
最近は西側でも、機能保存のために整形外科的な手術をできるだけ避けようという考えの先生方も増えているようです。)
なぜこのことをお伝えしたかったのかといいますと、一応少し機能解剖を知っているので私もいろいろ発言したりしますが、実は毎回
(でもそれはひとつの側面に過ぎない)
(ある方向から捉えた情報に過ぎない)
(本気でそれが全てだと信じているわけではない)
と補足したいのです。心の声では叫んでいますw
その都度これらを全部言うわけにいかないので、ここに書いておきます。