井坂洋子『ことばはホウキ星 詩・ナイト&デイ』感動 

 いまの自分が記す「ことば」の調子を判定したいが、自分ではなかなか難しい。しょうがないから日を改めてもう一度、数日前に書いた原稿を見直して判断する。これしか方法はないと思っていた。
 しかし本書の著者、井坂によると、人とのやりとりをつかうという。「少なくとも会話の気のきいたやりとりに価値があるってことがお互い前提となっている者同士、相手の言ったことで、思わずクスッと笑ってしまい、心の中で一本先手をとられた、と暗めに思う者同士」。こういう相手と、剣のかわりにことばを用いて軽く合わせ稽古をして判定するのだと。
 ありがたいことに、わたしにも何人かそういう人はいる。詩人ではなく編集者や校閲者、翻訳者だが、ことばで遊べ、戦える相手として貴重な存在である。
 だが、大事なのはここからのようだ。相手のことばに「ナルホド」と思ってしまったなら、「相手のほうがことばの調子がよい日にあたります」。井坂は容赦ない。ああ、ことばの調子というのも相対的なのか。そして、そんな日は(自分がことばをつむぐのは)「拍手にまわって諦めたほうがいいみたい」。つまり自分の負けなのである。
 こんな風に考えたことはなかった。しかし思い起こせば、世間話のメッセージ1行のやりとりでも気を抜いて書くと「ぼんやりしている(何が言いたいかわからない)」と返されたことがある。「この人にことばを投げるときには、雑談ひとつすら狙いを定めないと」と、背筋に冷水が走った。クスッと笑うどころではない。その日の勝ち負けどころか、勝負になってすらいない。
 いや、そうではない。べースラインが違うのだ。自分が調子の良いとき、精一杯のシャープさでことばを投げてはじめて、たまには相手がナルホドと思うことがあるのかもしれない。
 本書、すなわち井坂による作詩指南書は、「クスッと」「ダメ」「ないものネ」「どうでもいいけどサ」と、昭和の女の子たちの交換日記のような字面が並んでいる。一瞬「丸文字文化の人か」と幻惑されそうなのだが、じっさいは寿司屋の柳刃の切れ味というわけ。
 これが詩人の感性か。小説が「ある対象をさまざまな角度から多面的にとらえる力」を必要とするのに対し、「ある対象の全体を一瞬で把握する力」で書くのが詩だと著者はいうが、見た目でほわーんと欺き引き込んでおいて、音のしない部屋の中で爪を研いで待っている。それが井坂洋子という詩人なのだ。ならば読者としても「詩想をかき集める一本のホウキ」を手にして、ことば使いの魔女であり続けるよう努力するしかない。

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