斉藤淳『アメリカの大学生が学んでいる本物の教養』感想
本書は「教養」の定義から始まる。
著者のいう「教養」は栄養であり、それを摂取して「自分の中心」が構成された人は、思慮深く、尊厳があるという。まさに自分が目指す姿だが、果たして自分はそうなれるだろうか。
「思考の文法」を習得する手立てが教養だというなら、ぜひそれを身につけたい。
こういう恣意的な言説に惑わされないためにも、教養が必要ではないか。さらに、この文の「虚偽」を「曖昧さ」に置き換えると、このところ思っていたことにぴったり当てはまる。というのは、昨今、わたしが尊敬している多くの著名人が「10%の曖昧さがあることを語らず、90%の事実だけで読み手を誘導しようとする恣意的な言説」を語っているように思える。「重要なことなのに、そんなに簡単に、単純に言ってしまっていいの?」と思うことが多い。メルマガやYouTubeのタイトル、twitterにあふれているだけでなく、書籍(著書)にもそうした記述がなされていたりする。「言い切ってキャッチーなタイトルにするのが大切。まずは読んで(見て)もらえなきゃどうしようもないから」と思ってやっているのだろう。
そうでもしないと内容を見てもらえないのが、いまの世の中なのかもしれない。でも、そこで言い切ってしまったために、本当は必要な情報が削がれてしまっていると思うことも多い。
なぜ単純に書いてしまうのだろう。そうしないと読み手がわからないと思っているからだろうか。しかし、少なくとも自分の文章を読んでくれるのは、自分の頭脳を使って考える人ばかりだ。そこに向かって書いていくのが自分なのだから、目指すべき道はひとつ。自分は「90%の事実を語るとき、10%の曖昧さがあることも併せて述べる」ようにしなくては。そのために本書でいう「本物の教養」が役に立つならば、ぜひ身につけたい。
こうなるためには「必要な知識を身につけること」と、「自分の頭で考えること」が必要だと著者はいう。そのための「思考のフレームワーク」となる学問も本書では紹介されている。その中で、自分は「人間の心の動きを、観察、分析していく学問領域」である心理学について学ぼうと、思っていたところであった。というわけでまずは本を読んでみることとしよう。
その際注意するのは、情報(言説)と情報発信者であると著者は言う。本は「情報収集と思考の練習ツール」であるから、情報発信者(著者)を選ばないといけない。
さらに、発信者だけでなく、言説そのものにも注意すべき点がある。
著者が著名な学者であって、信頼できる人だとわかったとしても、その言説を鵜呑みにするな、ということだ。エビデンスがあったとしても、得られたエビデンスがすべてではない。「得られなかったもの」「見えないもの」にも目を向ける必要があるのだと。
そうそう、著者の言う「選択バイアス」のひとつに「生存バイアス」がある。その方法が成功して生き残った者は「こうやって生きてきた」と語るけれど、「生存できなかった」者がどうしてそうなったかは語られることがない。たとえば、わたしは英語教材の世界にいるが「言いたいことが話せるようになる」と謳う教材は世にあふれている。「ネイティブはこう言う!」「この方式なら!」「1日30分で!」などと書いてあり、当該教材を使って「話せるようになった人」の体験談が紹介されている。だが、当該教材を使用法に基づいてきちんと真面目に使ったけれども「話せるようにならなかった人」については情報がない。このことを忘れてはならない。
このように、信用できる著者(学者)を見つけて知識を身につけ、自分の頭で考える。そのためには必要なひとつが、このことだと記されている。
これならば毎日やっている。日記も書くし、noteも書く。さらに、毎朝自分の思考の流れをつらつら書いている。これだけは続けよう。そして、著者が本書で次に述べている「自分の意見をつくる」に移っていくつもり。元々今年は「留学したつもり」で学びを優先させる年にしようと決めていた。そこへこの本を読めたのもちょうどよいタイミングであった。まずは知識と思考を今年のテーマにしよう。幸い自分は放送大学に在籍しているので、講義もこのテーマで選ぶことにしよう。
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