感覚とロジックの歴史(1)
(※ある研究所の内部報告に連載した論文。タイトル変更済。権利者の許可取得済。当該研究所の性質から検索は難しいかと。)
「近代」の里程標
21世紀も20年を過ぎ、思考の衰退と技術革新と自然の猛威が止まらない中、前世紀のヒューマニズムを過去の神話のように感じている人は少なくないと思う。憲法と法律の文言を除き、人間主体の尊厳、個人の意志といったものに実質的な現実を動かす権能があるということを信じられるシチュエーションは、ますます我々の生活から失われている。とは言え、知的には、我々はまだ世界史における「近代」にいる。
世界史的「近代」とは何か。それは16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパに端を発する「認知革命」(チョムスキー)において成立した合理性の原則と普遍的な価値に貫かれた世界と言えよう。16世紀、ヨーロッパの戦国時代とも呼べる宗教戦争が終わったことをきっかけに、ヨーロッパ各国は現在「国」とか「国家」と呼ばれている行政と司法の単位を作り出した(ヴェストファーレン体制)。その頃また、科学の進歩に意を強くした知識人たちは旧弊なスコラ哲学と袂を分かち、経験主義と合理性の原則を樹立しつつあった。英国のジョン・ロックの経験主義は、現実世界の始めであり終わりであるような「私」という認識主体を強く打ち出し、17世紀後半から一世紀以上に渡ってヨーロッパ知識人を熱狂させた。一方、デカルト(René Descartes, 1596-1650)と『ポール・ロワイヤル論理学(La Logique de Port-Royal)』は、「人間誰しもに平等に与えられた良識」に基づく人間観を構築し続けた。世界初の「国語」として制度化され、すぐにヨーロッパの国際語となったフランス語は、彼らの説いた「普遍的理性」の見事な形象化であった。先端科学の言語と日常の常識の言葉が完全に延長線上にあるような知的パラダイム———非常に簡略にまとめれば、それが近代合理主義と言えようか。
17世紀に生まれた合理主義は、「人間主体」という価値を普遍的なものとみなし、そこにあらゆる制度的基盤を置いたからこそ、その後の数々の社会変動を乗り越えて、現在まで勝利し続けた。その証拠に、我々もまた「法律は個人の権利を擁護するもの」と信じて疑わず、「合理的原則のもとで現実認識を共有する限りにおいて、人は社会参加を許される」と考える。我々もまた、考えのベースにおいて、少なくとも社会と自分の関係を考えるときのベースにおいて、近代というパラダイムを脱していないからだ。
さて、ヨーロッパ思想史の授業では(少なくともそのフランス・ヴァージョンでは)、近代400年の歴史には二つの里程標があるとされている。それはあたかも、キリスト教の歴史に旧約聖書、新約聖書という里程標があるようなものである。(クラシック音楽の歴史にも同じメタファーがある。)最初のものがデカルトの『方法序説』(Discours de la Méthode, 1637)ならば、次のものはクロード・ベルナールの『実験医学研究入門』(Claude Bernard (1813-1878), Introduction à l’étude de la médecine expérimentale, 1865)とされる。(ちなみにクラシック音楽の「旧約聖書」はJ. S. バッハの『平均率クラヴィーア』、「新約聖書」はベートーベンのピアノソナタ。)両者とも、合理主義の樹立および刷新にあたってのマニフェストであると同時に、一般に向けて、平易なことばで、「現在偏見にとらわれて見えていない現実を、自分自身に立ち還ることによって見る方法」を説いた書である。
デカルトの『方法序説』はこう言う。人は皆、健全な現実認識と判断にいたるには、自然から与えられた良識と母国語以外のものを必要としない、だから自己観察をもとにした外界の観察を手がかりとしつつ常識に基づく着実な推論に従えば、真実への道を切り開くことは誰にでもできる、と。
19世紀のベルナールはこう言う。従来の臨床医学の「観察」の方法は、現在は「実験」の方法へとシフトすべき時に来ている、観察で見えない病気の様態が実験によって見えるようになることがある、しかしその実験も偶然に任せたものであってはならない、一人の人間が一つの観念を起点に論理の筋道を辿ることで見いだした方法でなければならない、と。
両「バイブル」とも、それぞれの時代の要請を映し出しつつも、時代を超えた同じメッセージを伝える。すなわち「思考者が自分の中に見つけ、直感と経験に照らしてこれだけは確かと思われる観念(idée)を、論理の筋道に沿って展開することで作り出す探求の道、これが真の思考の道であり、唯一の科学の方法である」。
また、デカルトはともかくも、現場叩き上げの研究者でありながら、堂々たる思索の理論を繰り広げたベルナールを見るにつけ、我々は、疑うことのできない西洋近代の典型的特徴、すなわち「思考者が思考しながら思考について語る」という側面が立ち現れるのを見る思いがする。これは端的に「哲学」と呼ばれるものであり、日本の「近世」にない西洋近代の特徴だ。西洋近代の自己実現は、もしかしたら科学技術の隆盛よりも哲学的価値の中に現れるのかもしれない。であるならば、近代の里程標もまた、実証科学における何らかのブレークスルーとの関係ではなく、哲学史上の価値によって測られるべきであろう。
と言うのも、デカルトとベルナールの間にもう一つ忘れられた指標があると思うからである。1740年代から1770年代にかけて知性論と記号論理学に関わる著作をものしたエチエンヌ・ボノ・コンディヤック(Etienne-Bonnot Condillac, 1714-1780)である。
コンディヤックは18世紀中盤のヨーロッパではヴォルテール並みに有名だった。しかし今では、同時代の博物誌家ビュッフォン伯爵(Comte de Buffon, 1707-1788)を覚えている人はいても、彼を覚えている人はそうはいない。また、当時コンディヤックを「パクった」と言われたドニ・ディドロ(Denis Diderot, 1713-1784)について言えば、その内実の軽さにも関わらず、世界に冠たる『百科辞書』の編纂者であったおかげで、剽窃を疑われる彼のテキストの方がコンディヤックのものより有名である。コンディヤックについて語るのは、現在専門家だけである。もちろん、権威ある存在としてではある(誰ももはや面白いと思わないモンテスキューが古典として尊敬されているのと同じように)。しかし、その哲学そのものについて言えば、その前の世紀のロック(John Locke, 1632-1704)やライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz,1646-1716)の亜流として扱われているというのが、おそらく実際のところである。
コンディヤックが忘れられた理由は他にもある。彼を再評価した人々が政治的に失脚したからである。また、科学史上の大きな発見をしなかったからである。
コンディヤックは、1780年代、ラヴォワジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier, 1743- 1794)やコンドルセ(Marquis de Condorcet, 1743-1794)によって典拠とされていた。しかしそれは大した名声にはつながらなかった。この天才化学者と優れた社会思想家は、時を待たずして断頭台の露と消えたからである。コンディヤックを再評価し、世代を挙げて大プロモーションを展開したのは、テルミドール政変後に権力を掌握した学者集団であった。「イデオローグ」と呼ばれる人たちだ。
恐怖政治後、彼らは徐々に公共の席に集まり始め、矢継ぎ早の哲学的出版物によって世論と政治の中枢に座した。最初のメンバーは次のような蒼々たる顔ぶれであった——最後の啓蒙の世紀の哲学者の一人、フリーメーソンのデスチュット・ド・トラシー(Antoine Destutt de Tracy, 1754-1836)、地理学者ヴォルネー(Comte de Volney, 1748-1820)、あらゆる体制を生き抜いた真性の政治家シエイエス(Emmanuel Joseph Sieyès, 1754-1836)、長く中世の監獄のようであった精神病棟を「解放」したフィリップ・ピネル(Philippe Pinel, 1745-1826)、当時のスーパースターであり、「哲学者的医学者」の象徴カバニス(Pierre-Jean-Georges Cabanis, 1757-1808)、等々。
彼らはきわめて多彩な学問領域に属していたが、コンディヤックの思考の方法を共有することで結びついていた。デスチュット・ド・トラシーは、この方法に依拠するフランス新時代の学問基盤を「イデオロジー(Idéologie、観念学)」と呼んだ。それゆえに彼らは「イデオローグ(《les Idéologues》)」と呼ばれたのである。「イデオロジー」は、コンディヤックの「感覚主義」をもって、人間個人の心身の統合の契機を探り、そこから認識論に始まって社会制度までを改革しようとするものであった。1790年代末にコンディヤックの全集が刊行され、哲学者の生前未発表だった『論理学(La Logique)』と『計算の言語(La Langue des calculs)』が読めるようになるにあたって、ある種のイデオローグの関心はコンディヤックの記号論に移った。
ともあれ、彼自身は革命の萌芽も目にすることのなかったコンディヤックであるが、死後20年経って、新生フランスのリーダー、特に医者たちからの熱烈な再評価を受けることになったわけである。しかし、イデオローグの政治生命は長くなかった。1804年に自らを皇帝としたナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821)が、執政政府時代の放縦な自由主義の名残であるとして、イデオローグの思想を弾圧し始めたからだ。そしてナポレオン後の王政復古から七月王政の時期になれば、イデオローグの方法論はもうすっかり古くなっていた。コンディヤックの推論方法が最も生かされたのは臨床医学の領域であったが、それは実験科学の観点から何らかの発見を招いたと言うよりも、むしろ制度改革と社会意識の領域での議論を生んだものだった。(17世紀から19世紀にかけての医学史におけるそうした意味でのブレークスルーは、おそらく17世紀初頭のウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey, 1578-1657)の血液循環説と、1830年代のフィルヒョウ(Karl Virchow, 1821-1902)による細胞の発見だけであろう。)そして、1830年代の医学研究の尖鋭部分は、すでに臨床から実験室に移っていた。
かくして、コンディヤックの「感覚主義」は「科学の土台」としては忘れられた。しかし、その畢生の大作である記号論理学———イデオローグによってある程度論じられたものの、イデオローグが歴史の舞台から消えるとともに忘れられた———は、現在、AIの法整備などに関わる記号論の再検討の中でもおそらく見るべきものを持っていると思う。少なくとも、ライプニッツ的な記号言語論(人間言語を構成する基本的で普遍的な要素を代数記号に置き換える)への志向が、コンディヤックにおいては人文科学の一時代を画した感覚主義と分ちがたく結びついていたという一点、この一点を見るだけでも、彼の現代的な価値は高いはずだ。なぜなら、西洋近代史を貫く「人間主体」の探求は常に、一方では普遍記号の構想と、他方では感覚から意志を結ぶ精神作用の連鎖についての議論という、時に交わり、時に相反する二方向に別れて展開したからである。デカルトにおいても、ロックにおいても、ライプニッツにおいても、それは同じであった。
この点に関して、「イデオローグ」の中でも、パリから遠く離れたベルジュラックに住み、パリの学士院よりもベルリンのアカデミーとの交流を好んだメーヌ・ド・ビラン(Maine de Biran, 1766-1826)は、1810年頃のものと思われる「意識が悟ることのない知覚について(« Mémoire sur les perceptions obscures »)」という論文で、警鐘を鳴らしている。イデオロジーの制度的野心は内省以上に記号体系の確立を重視したため、すでにこの時代において、記号が自然な心の動きに先立ち、内的感覚を否定するにいたっている、と。
人工的な記号は、内省を規制のカテゴリーにはめ込むと同時に矮小化する。ビランがここで言っているのは、記号が一人歩きする時、つまり「技術」となる時、主観は真っ先に打ち消されるということだ。それは同時に、近代の礎となった知的探求に常に内在した、「記号」と「魂」の間の分裂を、便利さに驕った社会が忘れてしまうということでもある。ビランが嘆いている状況は、19世紀初頭の人よりも、テクノロジーの前で手足をもがれた現代の人間にとってより切実な問題ではないだろうか。
コンディヤックの方法
さて、「イデオローグ」たちが活躍した時代のフランスは、革命後の激動の最中で、人類がかつて経験したことのない状況に置かれた時代でもあった。共和制の夢はすぐに弊えたが、その数年に築かれた理論と制度はその後一世紀近く残った。ナポレオンのような破格の英雄が生まれたのも時代のなせるわざであっただろう。そうした時代にあって、皇帝と対等に渡り合った「イデオローグ」たちは、良くも悪くも桁違いの知性とビジョン、野心と欲望、そして想像力を備えた個性ばかりであった。
ここで、イデオローグの一人一人の思考の冒険の中に降りて行きたい気持ちに駆られるのだが、それよりもまず、彼らほどに違った個性、違ったバックグラウンドの人々を一同に介せしめたコンディヤックの理論を、ゆっくりと一巡することから始めたいと思う。それがこの「研究ノート」の趣旨である。
まず、「感覚主義(le sensualisme)」である。
コンディヤックは、17世紀英国の哲学者ジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)の経験論哲学に深く私淑し、ロックと同じ「人間知性の起源と成長についての形而上学」を志向した。『人間の知識の起源についての試論』(1746年)にはロックの影響が顕著であったが、1754年の『感覚論』ではそこから脱し、自らの方法を確立した。40年後にイデオローグたちがこぞって「実践の道に乗せる」(カバニス)ことになる「分析(l'Analyse)」の方法である。
ここにはフランス哲学史では非常に有名な「大理石の彫像」の寓話がある。序章において、コンディヤックはこの本の目的は「五感を別々に考察し、人間がそれぞれの感覚より得ている観念を精確に分離し、どのように五感同士が外界について教え合い、互いに補強し合うのかを知る」ことにあったとことわり、その探索と説明のために用いた方法をこう説明する。
『感覚論』は四部にわかれており、それぞれの内容は次の通りである。
さて、この「目次」にはさらに細かく、一つ一つの章の内容を書き添えた行が付随しているのだが、その全容は、完全なる唯物論的な人間の知的機能の解剖と、それをさらに組立てた人格の創造という観を呈している。「イデオローグ」たちがコンディヤックを信奉したのは、ここに描かれた「五感のうちどれか一つの感覚しか与えられていない大理石の人間」が徐々に精神機能を獲得していくという寓話が、「科学的に」正しい人体発生の経緯であると思っていたからでは無論ない。まず一つには、コンディヤックが18世紀のフランスでほとんど過激さを加えた唯物論に与し、その指標に従って人間精神(あるいは「魂」)を「能力」(後に「機能」と呼ばれることになる当時の新しいカテゴリー)の集合体としつつも、神秘主義者にも及ばぬ人間内部への沈潜を果たした、ということがある。革命後、全面的な医学部の制度と解剖学の基礎理論の改革の最中にあった医学者たちは、「人間における心身機能の関係(les rapports entre le physique et le moral)」を近代医学がまず到達すべき目標とみなして多くの議論を繰り広げたが、彼らがコンディヤックを頼りとしたのは非常に頷ける話である。
例えば、1790年代に精神医学の制度的改革に乗り出したフィリップ・ピネルは名高いコンディヤシアンであったが、その壮大な『精神病についての医学的・哲学的概論』(1801年)の根本的概念を説明してこのように言う。
感覚主義はコンディヤック哲学の機軸であるが、それはまた、彼の言語および記号についての思考の出発点でもあった。イデオローグたちは、彼の「分析」がただ唯物論的であるから踏襲したのではない。分析とは「解読」であるならば、そこには新しい言語のあり方が指示されていたからである。「イデオロジー」とは、心身統合の医学哲学理論に収斂されるものではなく、何よりも、近代を貫く普遍言語論、普遍的記号の探求を大規模に繰り広げたものであったからである。
1746年、『人間の知識の起源についての試論』でコンディヤックはこのように言う。
30年後、この最初の記号に対する考えは、人間言語が数学的記号の体系化によって、初めて普遍的な純粋理性のことばとなるかもしれないという熱烈、かつ狂信的な期待となっている。1770年代に書き続けられたとされる未刊行の『論理学』は、「分析」哲学から直接流れ出た、コンディヤックの記号論の集成である。そこにはこのような推論の流れが読み取れる。
イデオローグたちは、コンディヤックの感覚主義と「分析」の方法を通して、こうした記号論に到達した。そして、それが彼らを最も熱狂させたものでもあった。
(2021年11月初出)