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『完全無――超越タナトフォビア』第五十三章

頽落した人間たちは哀れである。

頽落とは進化であり、進化とは退化である。

生き様と死に様だけを脳裡に浮かべることに忙しい。

己が生まれる前の自我を想起することによっては、あまり恐怖を抱いたりしない割に、生物学的に死んだ後の自我、自己意識の行く末に関してだけは依怙贔屓(えこひいき)的に幾倍も恐れおののく。

そういった思考パターンに捕縛され続ける人間たちこそが、世間一般的なマジョリティ、つまり蔓延としての世人なのではないか、と無粋ではあるが、辛辣な推論によって人間たちを日々睨み続けるわたくしが、ここにいる。

真理のさらに奥にある【理(り)】から最も遠いのは、そういった人間たちのあっけらかんとした反知性的かつ無意識的無関心による常識への我が物顔の逃亡である。

だがしかし、ほんとうに最も【理(り)】から遠いのは、戦慄すらしたことのない人間たちが、純然たる苦笑いの同心円の拡散の中で、精神なる「曖昧な」概念における情緒的な「波立たせ」を、シニカルに眺めやる行為である。

感情の揺らぎや、感情のざわめきは、その身を任せることはできるとしても、理性としての知が決してその推理力を高めることのない概念空間なのである。


また、享楽による忘我の時間を積み重ねる類いの人間たちは、タナトフォビア、あるいは無限への畏怖から、刹那的にその頭脳を「丸ごと」前-最終形真理に突っ込ませ、ダークな思念としての外敵から、内的に隔離された「振り」をすることで(つまりはその行為が、嘘くさい演技に過ぎないのだということを少しは自認しているということ)、そして、表層的な存在論的形態の中で、無意識的な(頽落した人間たちは、途中までしか考えることをしない)自己詐欺に、みごとなまでに腰の位置まで陥ることで、そのいびつなるお尻の表層が、究極の【理(り)】へのディスリスペクトであることも知らずに、外界へと無邪気に輝かせているのだ。

しかし、当の人間たちには、そのお尻の稚拙な亀裂を振り返って目視することはできないし、享楽のためにその腰を振ることも、もはや不可能なのである。

上記の文言を、なるべく限界まで分かりやすく解きほぐすとするならば、「タナトフォビア超越」つまり、タナトフォビア克服のための糸口に関して、まったくの運命任せにしている人間たちは無思考を恥じ、荒ぶる世界への道を一丸となって舗装しては、彼らのためだけの逃走線を縦横無尽に走らせるような、そんな魂の無駄遣いを反省せよ、ということである。


人間たちには狐のような尻尾がない。

尻尾とは引き千切られるための意匠ではなくて、救世主がその手で掴むためのサインでもない。

尻尾とは、人間たちにとって決して無駄ではなかったはずの根源的な智慧の名残りであるのかもしれない。


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