『完全無――超越タナトフォビア』第六十九章
わたくしはこの辺りで謙虚になろうと思う。
謙虚であろうとすることは、自然体であろうとすることであり、身の丈にあった試行錯誤であろうとすることである。
また、謙虚であろうとすることは、たたかうべき相手へとまなざしを逸らさないことでもある。
そういう時期であろう。
では、聴いてほしい。
生き物が死ぬと、生きていた頃に知り合ったすべての生き物に再び逢える、
というロマンティックな思考プロセスに認知バイアスを仕掛けられる方々が、地球人社会には一定数存在する、という事実にわたくしはまず驚きを隠し切れないでいる。
確かに、そういったその場しのぎの宗教的誘惑は、情状酌量有りの案件として古今東西にありふれた抽象的な罪であるとはいえ、謹厳な精神のお戯れとして、単純には罪悪として裁き切れないケースであることは確かであろう。
しかし、わたくしからすれば、まやかしに過ぎない、と言ったとしても言い過ぎではないのである。
もちろん、なにごとも断定はできない、ということも知ってはいる。
断定できないのである、という言い方も、断定であるから、避けなければいけない、のかもしれないのであるが。
「かもしれないのである」が、延々と続くかもしれないが、それはともかく……。
以下略である。
要するに、私が言いたいことは、いかにもキリスト教的な「復活」も「神の国」も世界の性質として全面的にあり得ない、ということであり、人間的スケールの枠内で信仰に値するあらゆるものを、一旦は放棄することをお勧めする、ということである。
科学が宗教であるかないか、という議論はともかくとして、たとえ科学であっても、それが信仰に値するものであると一定数の人間たちが認める限り、究極の哲理に辿り着きたいならば、一度は見限らなければならない、ということでもある。
先に触れた単語を再度用いるが、「神の国」とはこころの中の楽園である、とレトリックで巧いこと逃げることができたとしても、修辞というものが人間原理に奉仕するだけの小手先の技術であるからには、同じことである。
見限らねばならぬ。
まずは、そういった宗教社会学的に根を張ってきたすべての価値観(イデオロギーとやらのさまざまな意匠も含む)に対して疑義を呈することが、わたくしたち(つまりは、頽落することを拒否する存在者)による試行錯誤であり、思想錯誤でもあるのだが、そういった思惟の過ちを犯し続けることで見えてくるものがあるのは確かであろう。
それは、科学的な理論のみを鵜呑みにして、科学教に入信することではなくて、科学的な拘束のすべてに対しても疑義を挟むようなスタンスを保つべきである、ということでもあるだろう。
元来、ことばを超えて見えてくるものとは「学」の範疇内だけでは把持できないなにものかである、ということは覆し得ない。
それに、ことば以外のなにものかが導いてくれると言ってもハッタリではない、という自負がわたくしにはある。
わたくし自身が実際に経験した、とんでもない絶望の亀裂の底から、魂全体を磨り減らしながら掴み取ってきた「救い」の種、インフェルノのさらに深奥から脱け出すことで流すこととなった原約(げんやく)の涙、それらは偶然にもタナトフォビアという荒野に「癒し」の花々を咲かせることとなったのだが、ともかく、その体感こそが前-最終形真理を超えた【理(り)】への道標(みちしるべ)であり、そこには常に完全無-完全有のひかりが満ちているのだ、ということだけは、この段階で告げておいても罰(ばち)は当たるまい。
あまりにも業の深い、存在論的に畏怖すべき淵源から這い上がりつつ捉まえたそれらの要素は、究極の【理(り)】の最後の扉を抉(こ)じ開けるための鍵束であったのだ。
それは対義語の生滅ゲームを超えており、ことば自体からも完膚無きまでに遊離してしまっており、ただただ純粋に絶望的な希望である、と感じさせる体験であったのだ。
その激烈な一撃としての事件は、ロゴス、ピュシス、パンタ・レイ、エイドス、ヒュレー、イデア、デュミナス、エネルゲイア、存在の一義性、イドラ、ヒュームの法則、アプリオリ、アポステリオリ、アウフヘーベン、永劫回帰、ダーザイン、原エクリチュール、祖先以前性(並べれば並べる程にこの作品が陳腐化してしまいそうなので、この辺で止めておくが)、ともかく、あらゆる哲学用語からもはみ出しつつ、なおも零れ止まぬ、究極の偉大なるメサイアである。
今、この作品に歓喜の風紋が刻み付けられた。