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『完全無――超越タナトフォビア』第百八章

感覚によっても論理によっても示威することの難しい堅物の名が、完全無であることは確かなのだが、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いの答えとしては元よりふさわしさを欠いている、と言えよう。

完全無を持ち出してしまえば、その問い自体が無効化されることになるのだから。

そのような問いに対して、さまざまな答えを人間は用意するだろうが、その生み出す様も含めて、人間たちにとってのあらゆる事象というものは、あらかじめすべて起こっているのだ、と言うことはできない。

動的無限性を超えた完全静謐的無限としての完全無においては、答えがあろうと答えがなかろうと、もはや、先駆的かつ無位相的かつ完遂的に、ある、というものがあるからである、と回答することも、完全無においては無意味である。

それではなぜ完全無があるのか、とルイス・キャロル的に「なぜ」を重ねるというその動的無限的懐疑でさえ、完全無の側からすれば有意義な補填材料とはならないのである。

そもそも完全無というものは「ある」と「ない」に分別することすらできない。

完全無が主語となることは不可能である。

同時に、完全無は述語にもなることはできない。

さらに、完全無という「ひとつのもの」がある、ということもあり得ない。

一者から何ものかが流出することによって世界が成立する、ということもできない。

何もかもが起こってしまっているのだから世界はひとつの完成体なのだ、ということでもない。

あらゆる事象があらかじめひとつに溶け合っている、ということでもない。

ひとつ、ということがまずあり得ないのだ。

ひとつという観念は、1という「数」に過ぎない。

1という記号が象徴する全体性は境界線を設けてしまうだろう。

1とは百%、つまりすべてであるだろう。

しかし、完全無とは「すべて」を意味しないのだ。

「すべて」を「すべて」だと認識してしまうとき、同時に生まれる概念が「すべて」にとっての「外」である。

外在性。

しかし、完全無は外側を持ち得ない。

ホワイトボードに描かれた円の一筆書きのように、外と内とを同時に指し示すことなどないのである。

人間たちが想定し得る全体性というものは、遣る瀬無いことに、自らの境界線を定めるという、まさにその運命のせいで、その自己充足的エネルギーのみに頼ることで、どこまでも拡がり続けざるを得ないのである。

全体性の全体性の全体性の全体性の……。

全体性は動的無限的に続く。

全体を思えば何もかもが無限性を引き寄せる。

全体性に薄皮があり、か弱い境界として世界そのものを内包することなどできるわけがないのである。

限りなく個物を内包すべく定められたありきたりな全体性、それは動的無限性に発散せざるを得ないだろう。

動的な無限も動的な有限も、全体性も部分性も、完全無の夢を見ない。

「世界の世界性」としてふさわしいのは完全無という「原約」のみであろう。

数字の0(ゼロ)は0(ゼロ)として確固たる、ありありとした動的存在者に過ぎない。

0(ゼロ)などという概念は、どこまでも腕を伸ばし続ける宿命に放り込まれた、絶海の孤高の大樹に過ぎない。

0(ゼロ)であろうと、非0(ゼロ)であろうと、それらは完全無を抽象的にも具象的にもあらわすことはできない。

よく人間たちはこう言う。

一度限りの人生。

一度限りの宇宙。

一度限りの世界。

そのような陳腐な歌詞の言い回しにも似た文字列が完全無の匂いを嗅ぎ付けることなどインポッシブルである。

願うことで、祈ることで、信じることで、不朽という運動体を手に入れるようとする無駄なあがきをやめて、すでに何もかもが「ある」のだ、という傲慢な信仰も捨てて、何もかも信じないことも、完全無という無体感には肝要な態度ではないだろうか。

「何もかもは、何もかもであるがゆえに、何も無い」という文言はダウトである。

完全有であろうと、絶対有であろうと、どのような有であろうと、完全に完全無という基底に縛られているがゆえに同一なのである、という浅はかな勘考から自由になろうではないか。

そのような見かけ倒しのトートロジーの反バロック的様相こそが唯一の世界における祝杯だと勘違いしないでほしい。

完全無は縛らず縛られない。


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