『完全無――超越タナトフォビア』第九章
ねえチビたち、真理とはなんだろうか。
ことばなど知らぬ時代の人間にとっての真理と、
現代における科学的真理とでは、
どちらがより正しいかを突き詰めたとしても、実は埒が明かない。
どのような真理であっても、めくるめくパラダイム・シフトによって、突発変異的にコペルニクス的転回が起こることもあり得るのだが、遠い未来(時空が存在すると仮定した世界における未来)に人類が滅亡する可能性は高い。
そのようなちょっと消極的な事情のせいか、わたくしは、真理のありがたみをゆるやかな愛のように抱えることができないでいるのだ。
真理を追求し追究するところの、人類の人類による人類のための真理でしかないのが、科学一般であり、そこらの小石たちには、論理学・数学・統計学・物理学・化学・生物学・惑星科学・宇宙科学・計算機科学・工学・医学・農学・歯学・薬学などの学などは通用しない。
そこらの小石たちは風やひかりと無言の輪投げをしていることのほうが、ずっと心安いし、なによりも体感として真理であるだろう。
脆い真理に騙されたままのほんのり安穏ないくらかの間隔の中に、人類はちょっとしたアクセントとしての英雄叙事詩を求めたがる。
その気持ちは狐族のわたくしにもわからないではない。
しかし、世界を転回させたところで、いずれまた世界そのものの意志によらず転回される。
真理という、ほんとうはいびつな球体が、あらゆる方向にごろんごろん転がりまくったとしても、常にあたらしいふたつの仮の「極」が球体に生成されるように、真理の真理性は偶発的で、恣意的で、正当性がない。
極めて厳格に見積もれば、真理の真理性とはもとより存在しない、とも言い得るほどに頼りない。
それが一般的な意味合いにおける世界という総体に対する首肯すべきとされている歴史的認識というものだ。
過去だけを見ても、
未来だけを見ても、
現在だけを見ても、
認識としては不十分ということ。
連綿と受け継がれている知の集積にはもちろん連続性があり、人類の本能からの営為(それは正しきものを知りたいという根源的欲求であり、知を愛することにほかならないのだが)に対しては尊重すべきだとは思う。
しかし、真理などというものは、一過性のその場しのぎの救いのようなもので、完全に信じるべきではない。
世界を転回させてもさせても常に不動であるような「極」が二つあるのだとしたら、それらがきっとわたくしの【理(り)】に近づくための驚異的弾性力を持つバネの、それぞれの極点となるであろう。