『完全無――超越タナトフォビア』第百五章
(そしてそしてさらにさらにきつねくん、つまりわたくしは、ゆっくり足早に駆け抜けることを許されているかのように、超越タナトフォビア教の第一使徒のになったつもりで語り始める。
ことばを発し続けなければ、ありありとした現象界の光の散乱に絡め取られてしまいかねないからである、という一抹の不安が己の発声器官の核を震わせつつ。)
「現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。」
と、西田幾多郎は哲学的論文『絶対矛盾的自己同一』の序盤で熱っぽく定義している。
わたくしはそれを乗り越えただろうか。
いや、乗り越えようとしているのである。
わたくしは、完全無を感じろ、とある種、主情主義的に強弁したいのだが、完全無を忘れろ、と無情主義的にゴリ押ししたとしても同じことではないだろうか、そんな「感じ」がするのである。
圧倒的絶望から体感として、経験として、この思想すなわち対義語関係・否定語関係無き【理(り)】を得たわたくしが「無」という文字に対してちょっとしたえこひいきをすることを、お許し頂きたい。
精確には完全無という「世界の世界性」だけを無体感せよ、とわたくしは訴えたい。
完全無が有に包摂されることはない。
あらゆる包摂、内包、閉包は完全無においては成立しない。
完全無に幅無し。
待った無し。
あらゆる運動は不可能だ。
場所は無い。
有が完全無に吸収される、ということもない。
完全無においては主語と述語に居場所は無い。
「おいては」も無い。
西田幾多郎の「絶対無」とわたくしの「完全無」とは位相を異にしている。
そして、ことばというものには限界がある。
指標にはなれど、その止む無き指向性が認識論的な誤解を生みやすい。
不立文字を作品としてあらわすことはどのような主体にとっても難儀であろう。
ともかくである。
西田哲学の「絶対無」における動的な同一化、たとえば「物と物とが相働く」ということは、完全無という「世界の世界性」においてはあり得ないのであり、西田哲学に対して決定的に袂を分かつとするならば「絶対無」におけるその動性に対してであり、わたくしの考えにおいては、「動き」というパラメータが立ち現われることは絶対的に無い、と言えるだろう。
「ある」でもない、「ない」でもない、そのような第三の概念も認めない。
中道、宙吊り、重ね合わせ、不確定、曖昧さ、それらによって完全無を形容することは不可能である。
それが完全無という名のおもてなしなのだ。