『完全無――超越タナトフォビア』第十七章
それではわたくしきつねくんが再び語ろう。
「わたくし」なんてちょっと偉そうで、なんかいいでしょ?
普段は「わたくし」なんて言わないからね。
作品においては、これがベターだと勝手に思っているので、よろしく。
さて、
「梵我一如」は畏怖すべき、そして惜しむらくは、的外れな概念だ。
まず、「我」というのは生気としての自意識のことであろうと思われる。
しかし地球には、山ほどの生物が存在者として生気を持つのであるから、それらの多様性を恣意的に破棄しつつ、人間と宇宙だけを弁証法とやらによって、混合的ワンネスに仕立て上げようとする態度では、わが狐族はもちろんのこと、チビたち犬族からも、猛烈かつずっしりとしたクレームが飛び交うことは必至であろう。
それに、人類は滅びることはないという前提、もしくは、人類だけにすべてのベクトルを差し放っている前提による概念という意味合いにおいて、「梵我一如」という概念、非常に惜しいなあとは思う。
わたくしきつねくんの【理(り)】すなわち詩狐(しぎつね)としての【理(り)】に近いといえば近いのだが、少々違う。
実を言うと、その少々が隠し味となることで、結果的には、無限に裾野を広げてゆく富士山の10合目と1合目くらい価値観は変わってくる。
いや、やはり持って回った言い方はやめておこう。
チビたちの前では馬鹿正直に語らせてもらおう。
その方が読者の方々にも伝わりやすい。
わたくしきつねくんは「梵我一如」やそれに類似するところの「ワンネス」などなどに関しては、完全に否定させていただこうかな、と。
「梵我一如」も元々は「個と宇宙という対峙する別々のものがひとつであったという全体性」が前提になってしまっている時点で、わたくしの思想と相容れることはないだろう。
「ひとつ」ということはあり得ない。
とある「ひとつ」と呼ばれる、つまり名指される何かが、その「ひとつ」自身の作用から世界そのものをあらわすということはできない。
何かが何かとして何かに作用するためには空間という幅(哲学的に示すならば「延長」という概念)がなくてはならないだろう。
だが、そんなものはない、とわたくしは言い切る。
さらに「無」から何かが生ずるということもない。
いや、世界においては、何ものをも生まれることはない。
世界には「道」はない。
幅のあるすべての概念は存在しない。
前と後ろに挟まれた「道」というものはない。
前と後ろというものがないのだから「道」というものはあり得ない。
世界はカオスから生まれることもない。
世界には初期値はなく、インプットされる引数(ひきすう)もない。
不定形なもの、移りゆくもの、夢幻のようなものもない。
なぜなら「動き」ということがないからである。
変化ということも起こり得ない。
そもそも生誕から死没という時間的流れもない。
なぜなら空間は存在しないからである。
生誕しようとしまいと、存在してしまっている存在者に呪詛を浴びせかけたとしても、それらはあらかじめ無効化されており、世界を語る際には詮無きことなのである。
生誕はそして災厄ではない。
なぜなら、生誕が存在しないとともに、災厄そのものも存在しないからである。
すべてのことは定義付けから自由である、というわけではない。
定義できると信じているそのことがすでにしてあらかじめ無意味なのである。
たとえば、生れることも死ぬことも、人類における一般的知性のレベルにおいては、単なる変化に過ぎないのだと知のある者が無知な者に説明することは可能であるかに見える。
人間による人間のための論理が通用すると仮定するならば、それは確かに論理的には証明され得る可能性をもっている。
しかし、世界に対して知や無知を超えたところにある究極的な立ち位置を確保したいならば、そういった単に科学的な思惟に身を置くことは一段も二段も、いやあらゆる階段の最も低い段よりも低い位相に立ち尽くしているのだ、と認識することが、最終的には賢明だと言えよう。
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