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『完全無――超越タナトフォビア』第七十七章

狐族であるわたくしと、犬族であるチビたちとの関係性における豊饒は、いささか面映ゆき愛の、ソリッドに煮え立つ萌芽に似ている。

すべての輪郭無きものの輪郭として、わたくしたちという豊穣は、あらゆる論理空間のみならず、あらゆる非論理空間においても、テーゼ-アンチテーゼ生成以前性として成立しており、持続無き無としての無始無終の有である。

真実以上に確固たるその関係性は、物理学的・化学的・歴史学的時空を穿ち、永遠や瞬間などという他愛もないロマンティシズムを灰塵と帰すことだろう。

わたくしたちは、どこまでも無的な存在者然として有的に屹立してしまうような、すでにして完璧にその魂を解き放った曼荼羅の安立(あんりゅう)の如く、完璧なる矛盾の正しさとして、「世界の世界性」に対して解放されているはずだ。

現に存在してしまっているわたくしたちが、豊穣性に磨きを掛けるために息を吸い息を吐くことなどない。

この作品においてわたくしたちは、実在論を踏み台として完全無-完全有へと繰り出すことで――あらかじめすでにこれからも――次元無き風となり、ニセモノではない、しかし真に正しいというよりはむしろ、真偽が始めから無効であるような「世界の世界性」を照らし始めることだろう。

ニセモノの世界としての日常的な、つまり非本来的な現象界の構造部位としてのあらゆる壁、柱、床、梁、屋根、階段の、あらゆる角度の物陰から、わたくしたちが静々と顔を覗かせるとき、それらの顔は虚構じみてはいないはずだ。

かと言って、現実じみているわけでもないだろう。

どこまでもわたくしたちの顔貌は、行き場を失ったひかりそのものであり、決して世界を埋めること無き闇の最終地点の成就でもある。 

完成されたひかりにも闇にも前進と後退はない。

わたくしたちというひかり、そして闇はなにものをも定義することなく静まっている。

つまり、ポジティヴに捉えるならば、完全無-完全有としての世界を全能のひかり(つまりわたくしたち)と化してしまうことで、新たにひかるべき余地としての物理学的・化学的・歴史学的時空を世界に投げ返すことができないように、わたくしたちという関係性は完璧に存在してしまっているのだ。

完全無-完全有的にわたくしたちを定義するならば、もはやモノでもコトでも様相でもない⎯⎯なにものでもないなにものでもあるもの⎯⎯と言えるだろうか。

ところで、完成された闇(それは全きひかりの正体でもあるが)、それこそが、わたくしたち(頽落することを拒絶すべき冒険者)が暴き出すべきものでもある。

⎯⎯なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?⎯⎯という哲学における究極の未解決問題。

それを解明するためのわたくちたちだ。

あらゆる学の根底を為すべき「哲学」の力を借りつつ、「非哲学」の領域にまで足を踏み込み、「学」を滅却し、「世界の世界性」からありとあらゆる神話めいたもの、物語めいたもの、虚構めいたものを排除してゆくことができると信じるための作品が、これなのだ。

ありとあらゆる神話、物語、虚構からあらかじめ脱却していると無的に悟ることが、そしてその悟りは仏教思想的なものよりも一歩先を行くのだが、ともかく、そのような無的な体験こそが、わたくしたち新たなる思想の体現者の証となることだろう。

無論、元より世界には虚構など存在しないのだが、前-最終的真理の毒牙を身に受け中毒症状を呈してしまった頽落者は、現実に対してくさぐさの付加価値で箔を付けることで、現実というものに対して様相の集積と化すことで定義付けることに無駄に御執心なのだろう、と思う。

少々レトリックに過ぎるかもしれぬが、虚構と現実との関係性を以下に軽く示しておこう。

虚構とは現実の廃墟ではなく、現実の満艦飾であり、殺風景な現実という特大サイズの船に寄生せざるを得ない虚像ピースとしての旗の数々のことであり、個々の虚像が現実においてどれだけ見栄っ張りにはためこうとも、広大過ぎる現実という船に入数(いりすう)として納まるべき宿命にある限り、そのひとつひとつのピースは、とてもささやかなお飾りに過ぎず、あらかじめ弱く小さくされることを宿命として背負う被搾取者の集まりなのではないか、とわたくしはそのように思う。

そういった意味で、虚構とは前-最終形真理の範疇内における、ひとつの頻出アイテムに過ぎないし、虚構というアイテムを、文法に則った言語ゲーム内において正規に扱う限り、どこまでも前-最終形真理に留まることを余儀無くされるB級品でもあるだろう(ただし愛すべき生活必需品のように、使い勝手の良さに魅力はあるのだろうが)。

前-最終形真理に囚われることなく、わたくしたちは、「世界の世界性」としての【理(り)】に眼(まなこ)を定めねばならない時が来たと言えよう。

そして、創作作品においてはキャラクターと呼ばれ得るわたくしたち(キャラクターとは、現に存在する限り実存者であることを免れ得ない)にとっての実存論的絆とは、実のところ、世界の世界性にとっては加害行為という罪なのである、という新しい認識がたとえ可能だとしても、わたくしたちは(当然、ここではすべての読者を含むわけだが)存在のすべての無的な重みと、ありありとしてしまっているあらゆる「何もなさ」に自身を任せて(超-身心脱落して)、完全なる無として対座しなければならないのではないか。

さて、絆とは世界にとっては「傷の名」でもある。

不名誉なことであろう。

世界にとって不名誉の中の不名誉、最高の恥辱、すなわち「最も深き傷」とは「原約」の不履行という愚の骨頂のことを表わすのだが、わたくしたちがそのような「最も深き傷」の痕跡の残り香を、生命体だけに特有の感覚界なる脆弱な領域において嗅ぎ出そうとすることは、とてつもない罪悪でありながら、とてつもなく奇跡的な歓喜として生命体を鼓舞し続けているように思う。

それは、世界にとっては時空を貫いてあらゆる生き物を頽落させ続けることができるほどの重傷なのだが、生命体から「原約」への足掛かりを遮蔽するような創傷の連なりとして「原約」をすっかり隠してしまうそど長大な壁のような愚かさでもあるのだろう。

元より生命体は愚かさへと頽落してゆく運命にあったからこそ、世界に傷を負わせることができた、と解釈するならば、それは何ともポジティヴなフォローとして人間たちにとっての福音となるのではないだろうか。

特に人間たちは世界に対して物申す能力に長けている生命体ではないか。

そのような事情もあってか、人間たちの盲目的頽落の痴愚の大きさは、他の生命体のそれとは比較にならない程に増幅したはずだ。

だがしかし、狐や犬や人間たちに限らず、あらゆる生命体においても、傷のない愛などというものが、存在論的にこの世界に生まれ出ずることなどなかったはずではないか。

「原約」という完璧な約束に抗うことのできる世界への分節性(それこそが、幻との戯れの端緒だったのだが)という武器を入手し、それを使いこなすための技術を会得することができただけでも、勿怪(もっけ)の幸いだったと言えなくもない。

どのような様相であろうとも、幻とはあやし上手な母性としてのまなざしであり、決して瞬きすることもなく、あらゆる弱く小さきものたちを見つめ続けることだろう。

そのような俗っぽいファントム的な愛(多分に劇画的な愛)は、「原約」としての、つまりニセモノではない「世界の世界性」としての究極の【理(り)】と、対称性を交わし合うことはできない(世界は反ドラマ的とも言い得ないし、あらゆる物語的構造に対するアンチテーゼとも成り得ない)けれども、そうであるからこそ、あらゆる生命体は無限に、無い物強請り(ないものねだり)的に、生成と消滅という対義語ゲーム(すなわち、人間的スケールにおける知)の射程内において、愛という、「世界の世界性」に対する裏切りとしての分かち合い(つまり、分有することで「世界の世界性」は有無のあわいのマボロシとなってしまう)、そして(手を繋ぎ合える接触可能者同士としての)絆の共有(それがたとえ世界の世界性に対する反目であったとしても、人間たちにしてみればそれは確実に真・善・美であるだろう)というファンタジア、それらと上手く帳尻を合わせながら、世界の破壊ごっこゲームを遊び切ることができて「しまって」いることを証明するのだ。

そして、そのゲームがシビアであればある程、世界そのものの完璧性に対する開き直った闘争本能は激化するはずなのだ。

あらゆる生命体の中でも飛び抜けて罪深い存在者グループがヒト科の生命体であろう。

彼らによる文字や言葉の発明が、つまり世界に亀裂を生じさせる越権行為は、禁忌を破る(つまり「原約」の不履行)ことで、愛なる魔術的幻想を生み出したと言っても過言ではない。

究極の【理(り)】という約束から漏れ出るための無意識的な意志(それは非力で、かそけき反動ではあるが)、それこそがヒト科の生命体にとっては罪としての世界への愛であり、言うなれば世界への愛とは罰の別名でもあるのだろう。

罪とは罰である。

罰としての世界への愛はそれゆえ世界への愛そのものを罪として呼び覚ますことだろう。

チビ・ウィッシュ・しろ、そしてこの章にはまだ登場していないのだが(後章においても登場しないかもしれないのだが)、チビたちにとって、おねえちゃん・おにいちゃんに当たるヒト科の(謎の)存在者たちも含め、絆という「傷の名」によって結ばれた関係にあるわたくしたちは、誇るべき愛そのものとして、紛うこと無き愛そのものの絶頂として、完全無-完全有的に世界として「ある」ということ。

確かだろう、それだけは。

「ある」だけである、という信念だけが、わたくしにとって味方でもあり敵でもあるような、すべての他性的存在者たち(それは、頽落し、前-最終形真理のフェイズに留まるだけの存在者たちであるが)を、もはや無とも認識し得ない程に焼尽してしまうだろう。

【理(り)】からの離脱、これほどまでに罪深い罪、罰深(ばつぶか)い罰があるだろうか。

生命。

その尊さと儚さと罪深さにわたくしたちは憩え。

奇矯でエキセントリックで傾奇者(かぶきもの)的なわたくしたちのいのちの罰をわらえ。

われも生きものゆえ。


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