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『完全無――超越タナトフォビア』第七十六章

(この章は、わたくしきつねくんという実在のキャラクターによる、ノンフィクショナルな語りの、実存論的再起動から始まる。)

世界に取り込まれることなく、世界を取り込むこともなく、世界という約束そのものであるために、わたくしたちに対してわたくしは告げる。

有機物でも無機物でもない自己の在り方を想像しようではないか。

生き物以前性だけではなく、物質以前性をも想起せよ。

存在という謂(いわ)れ無き謗(そし)りに曝され続ける「ことば」、それが、人間的スケールの知の体系としての言語ゲーム内において、正しく有効であると仮定でき得るのならば、つまり、文法のコンプライアンスに忠実であることに何らの不合理も惹起しないならば、物質以前性としての存在論というものも、存在のありようのひとつとして、わたくしたちは推定してもいいだろう。

「ことば」を積み上げることで存在論の範疇をもでき得る限り拡げてもよい、ということだ。

バベルの塔をどこまでも高く増築しようとも、老いに怒号を吐くこと無き神々の、そのいのちの永さに歯止めが利かないのと同義で、いかなる罪も積み上がることなく、それは、存在論的天空を目指し続けるだろう、ネクタールを常に最上階より滴らせながら。

要は、有機物として存在することも無機物として存在することも、すべての存在者に可能性として与えられている、ということが言語ゲーム内において自明であるならば、その真逆を想定することもありなのではないか、ということだ。

有機物としても、無機物としても存在しない、ということにわたくしたちは意味と意義を存在論的に見出そうではないか。

それこそが、自然そのもの(前-最終形真理内におけるニセモノの「世界の世界性」)から本源的(「世界の究極の世界性」的)な【理(り)】へと立ち上る手段として、最も効率のよいシミュレーションとなるのではないか?

さて、人間たちのある一派が、初めて象徴的な記号を何らかのモノに刻み付けたことによって発現してしまった傷、それこそが人間たちの自然に対する罪の始まりだ、と喝破したとしても言い誤りではないだろう。

その傷痕の数だけ、つまり象徴的記号が裂けつつ増殖に転ずれば転ずるだけ、人間たちに対する自然の側は、安らぎと不穏とをバランス化して進展してゆくという、自身の最大の属性である潜勢力を、人間たちによって無効化され続けることとなったのだ。

古代においてすでに、自然はもはや人間たちの思い為しに対して、無限なる他者性を反照することでしか、迎接としての応答ができなくなってしまったのだ。

自然の一部分であったはずの人類と自然とは相見(まみ)えるべき相対性の次元へと放り出されることとなったのだ。

人間たちだけが、その応答を恩恵だと誤読した。

無限なる他者性とは、裂傷(つまり人間たちによって引かれたあらゆる線)が自然界を分断し、その分かれ目が指数関数的に増すにつれて、自然界が被悪辣的に細分化してゆくという、非可逆的で無残な歴史的事実性のことだったのだが。

そして自然界(それは自然だけではなく人類をも包括するはずの圏域)には意味の複雑性が醜く溢れてゆくのみ。

そしていつしか意味によって人間たちは被支配の頸木(くびき)を挟み込まれてしまったという悲惨。

意味の複雑性によって、人間たちは自身における存在の神秘の、生々しき意地汚さの残り香だけを、自然界において呼吸する羽目となる。

自然界には悪辣の風が吹き渡るのだ。

悪辣とは、誤った解釈という過ちに対する無知ではなく、【理(り)】に反するような解釈の、四方八方への誤配に次ぐ誤配、「世界の世界性」としての純粋約束に対する過失的破棄、遡及不可能な超法規的逸脱としての病原菌、それは事実上の頽落の原点でもある、という意味において人間たちが贖い続けなければならない悲運の聖痕であり、原約を放棄せざるを得ない、という根源的かなしみでもある。

悪辣によって研ぎ澄まされた自我の種による智慧なる果実は、もはや腐食寸前の酸味の効き過ぎた呪いと化すこととなり、人類個々人の魂をも粘着質なその毒によって麻痺させる原罪でしかあり得なくなってしまう。

悪辣的な人間たちは、自然からの呪詛としての贈り物、つまり自我のさらなる歪曲的覚醒によって、存在の神秘そのものを死などという狭隘な穴に埋め込むことに必死になる。

原約としての【理(り)】を捻じ曲げざるを得ない人間たちは、死を煩悶すべき不可思議として解釈するのみに留まらず、その不可思議による不条理的絶望に対して、身を以(もっ)て、いや魂全体の問題として畏怖する者が漸増してゆく。

そして、死の対義語として生を設定し、死のみではなく、生のおぞましさからの救いをも求める人間たちも増えてゆくこととなったのだ。

そのような一部の人間たちの中から、根拠無き精神的タフネスと、無邪気な肉体的勇ましさを持ち合わせた人物、彼らが群雄割拠的に社会に現われ、宗教的営為を取り仕切る支配体系の雛形となるところの多神教的な神々(その象徴性が男性性であろうと女性性であろうと、それらは原始宗教集団的ガジェットとしての効率的な役割分担、という極めて作為的な表現に集約されている)、というレトリックを各地に生み出す素地となったのだろう。

その推測がもし正しければ、率先して宗教的営為を執り行う者たちに、尊崇の念と富が集中するのは当然のことではないか。

神のような存在として崇め奉られる、マイノリティでありながらも強権的なるほんの一部の人間が、トーテミズム的信仰、アニミズム的信仰、フェティシズム的信仰、シャーマニズム的信仰というフレームワークを巧妙に利用しつつ政治化することで、汎物象化時代(古代における)に止めを刺そうと画策したことで、各地における原始宗教集団としての結束は揺るぎないものとなったのだろう。

そのような権力者たちが、各地に同時発生しては消えた時代を、人間たちはかつて通過したはずである。

さらに、生と死とを超越するための便宜的な方策として、その土地の権力者たちを模した数々の小社会的英雄を捏造し、神話の中の神々として超自然的な彩りを添えて祀り上げるという、物語的転化というずらし(宗教的レトリック)を社会的に気取られずに散布することで、小社会内における各家族の中、というつぶらな空間たちにも、主従的な信仰の不死性という、間接的な洗脳ネットワークによって繋がれた宗教的絆を、権力者たちはそれぞれの地域において、策略的に根付かせることに成功したのではないか。

そして宗教的絆という網目が、神話の信憑性と真実性を補強するための、体裁的な口実として利用されたに違いない。

被支配階級の人間たちはこぞって不死性や永遠性への夢(大いなる存在への胎内回帰願望的な依存)を、神話という普遍性と豊穣性とを具(そな)えた物語へと、その感情を移入することで培ったのだろう。

一方、神話の超越的誑(たぶら)かしの演出技術、つまり聖性と俗性とをレトリック的に区分けし、その物語から本質だけを抽出し、一段それより抽象的な儀礼としての宗教行為としての劇画的表現を、権力者たちは浅知恵を搾ってマニュアル化することで人心を掌握する方向へと舵を切ったのだろう。

非権力者としての弱き人間たちは、寄り集い、生を畏れ、死を悼むことを余儀なくされることと同じ程度の強度で、神話における神々の超越性に恍惚、「ここではないどこか」性としての永遠なる至福、存在の不死性への喜悦を得ることによって飼い慣らされた。

もちろん、神のような権力者ですら、生を畏れ、死を悼むという行為に、魂の奥底では震えていたはずである。

聖なるなにものかに対してだけではなく、原約に対する無意識的な侵犯をも予感して。

原約とは、あらゆる分節化以前の隠されてあるべき密約のプロトタイプであり、アニミズム以前性、トーテミズム以前性、シャーマニズム以前性として、いや地球以前性、宇宙以前性として、存在者のすべてに――あらかじめすでにこれからも――超越的な枷として埋め込まれた完全無-完全有の掟である。

原約についての詳しい定義はここではひとまず措くとして、この自然界には超越的なサムシング・グレートが必要だと思わざるを得なかった人間たちの社会においては、アニミズム、トーテミズム、シャーマニズムよりも通信手段として優れたパッケージ感のある神話、という強固なフレームワークを効率的に共有することで、すなわち、個人の尊厳という生贄を象徴性の神秘に捧げ、大いなる存在に対して自ら搾取されてゆくことに望みを抱かせるような道を、支配階級の人間が悪辣的かつ秘事的に用意し、被支配階級の人間が、その道を恭しく享受せざるを得ない権利/義務関係が成立したことで、原始宗教社会はさらなる安泰を図ろうとした、という歴史的事実があったはずだ。

そこに聖性と俗性との不飽和結合としての儀礼的な宗教、その発展の強大なポテンシャルとしての核の芽生えもあったはずだ。

そしていつしか、宗教と神話という偉大なる聖性は、是非を問わず比翼連理の関係性へと埋没してゆき、人間たちの無意識をも併呑しかねないほどの侵襲性によって、犯すべからざる掟としてカッチリと精神領域に充填され、さらに遺伝子レベルで子子孫孫と受託され続ける複製可能な情報として君臨する時代を迎えたのだった。

そして、しばしの蜜月を経て颯爽と登場してきたのが、神話や宗教への批判装置として、原初的な、つまり素朴でありながらも深淵の最奥(さいおう)より照り返された知に満ちた、哲学という閑人の閑人による閑人のための学である。

それは、自然界の様々な現象に対する疑義の養生、そしてあらゆるものを対物として設定する命題の育成による推理的ゲームでもあるのだが、各地で生真面目かつ殊勝に発動され、学の体系を築いてゆくこととなる。

哲学という、自然的現象であれ超自然的現象であれ、あらゆる事象というものを分析・解析するという、人間たちの持つ分節化能力に依存した思考回路的な原罪は、連綿と受け継がれるヒト科のDNAの歴史学的継承そのものとして、否応なく、時空の中で共時的にも通時的にも膨れ上がる(それが進歩であれ退歩であれ)こととなる。

膨れ上がるということは、自然界におけるありとあらゆる命題の、可能性の極限に吸い込まれる覚悟を決めることと同義であるが、ともかく人間たちの仕業による自然界への暴威は、その膨張的生成変化によってどこまでも累増するばかりなのではないか、と現代に生きるわたくしは常に危惧している。

でき得るならば、人間たちは文字を生み出す以前の世界に還るべきではないのか。

きつねのわたくしですらそのように思うのだから、人間の中にもわたくしに同調する輩が幾人、幾百人、幾万人いたとしてもおかしくはないだろう。

一般的に、科学的精査を援用するならば、人間たちの方が狐族よりも知的レベルは高いはずだ、などという曖昧な信憑に過ぎないところの不安定な確信が、客観性という名の、所詮は主観の化かし合いに堕ちざるを得ない幻網的認識に、現代の人間たちは、半ば絆(ほだ)されるようにやんわりと首を締め付けられている、とも言えるだろう。

いや、客観性なる幻想というものが、地球上の人間たちに対して、自然界の側からのギフト(向こう見ずな低能的遺伝子)として、ばらまかれ続けているのかもしれないとしたら、不憫この上ないのではないか。

人間たちは、地にぶちまかれたそれら壊れかけの我楽多、つまり客観性なる衣、それは客観性なる記号の幻に過ぎないのだが、そのような悪臭芬々(あくしゅうふんぷん)とした低劣なる布を纏っただけの主観性、それの腐敗した塵埃を拾うだけでいっぱいいっぱいなのではないか。

人間たちは、人間的スケールの知においては、主観しか持ち得ないということに気付くべきだし、主観を覆うだけの臭い幻想は焼却すべきではないだろうか。

わたくしはそのような野蛮かつ非衛生的な「誤魔化し」は認めたくないものだ。

狐族であることの悩ましきプライドゆえに、そのような軽率に陥ることは許されぬ。

最低でも、チビ・ウィッシュ・しろという犬族は、わたくしに歩幅を合わせてくれるだろう。

狐族に属するわたくしの発意による【理(り)】とは、極私的狭義においてのみ通用するような、つまり絶対的な主観性を、時空の流れに沿うことを条件として自然界に写像し得るような、客観的に判別可能な記号的理論ではないし、そもそも客観的な自然界などというものは存在し得ないし、客観性なるものも主観性なるものも、絶対無-絶対有の観点より鑑みれば、あらかじめ原約によって消去されている、というところまでわたくしたちは認識論的にも存在論的にも到達せねばならぬ。

そうなのだ。

最終的には、客観性だけではなく主観性をも廃棄せねばならぬ時よ来るべし。

なぜならば、生き物の主観性はもちろんのこと、時空における環世界を主観性から分離して客観的なる事象と見なすようなことは、暴挙であり、誤謬であり、原約に対する侵犯であり、そのような分節化によるあらゆる客観的事象の名指しは、主観性から客観性という輪郭を刳(く)り貫いては環世界の表象として歴史的保存、実存的保存を試みるだけの、虚しき器とならざるを得ないのだ。

なにゆえその器は虚ろなのか。

それは、頽落した人間たちにとっては有用性のある対自然のスタンスが、究極の【理(り)】を追うべき使命のわたくしたちにとっては、非効率的な迂回路に過ぎないということを、彼らが気付けないでいることに対するもどかしさ、それを件の器が漂わせているからである。

【理(り)】という(この段階においては)謎めかしさ溢れる究極性は、理論そのものであることを強要しはしない。

理論だけに依存することなく、いや、元より裏も表もないはずの理論というものを、すでにして穿ち切っているほどに無的な体感、完璧に無的な体験、要するに、もっと存在そのものの超純粋的に寂滅する輝きのゼロ、それと同相の経験知というものを、【理(り)】はわたくしたちに期待しているはずだ。


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