「お金を守りたい」の背後にある感情
父は幸福を買おうとしていたのではない。不幸の不在を買おうとしていたのだ。金こそその万能薬だった。人間としての父のもっとも深い欲望、もっとも言いあらわしがたい欲求の具現物だった。父は金を使うことを欲しなかった。金をもつこと、金がそこにあるのを味わうことを欲した。つまりは不老不死の霊薬としてではなく、解毒剤としての金。ジャングルに出かけるときにポケットに忍ばせておく小さな薬壜──毒蛇に噛まれたときの用心。
ポール・オースター『孤独の発明』柴田元幸訳、新潮文庫、平成27年、p.90-91
ここで記された金銭観が、自分のそれと似ているので共感を持って何回も読んだ。そうなのだ、別に法外な贅沢がしたいわけじゃない。「美男美女をはべらせてプール付きの豪邸に住みたい」とか、そんなことのためのお金が欲しいわけじゃない。したくないことや金で避けられる不幸、不快なことを回避するためのお金が十分にあればいい──考えているのはこっちなのだ。
多くの人がそうじゃないんだろうか?金を見せびらかす暮らしをしたいというより、何かを我慢しなくていいこと、辛い境遇を避けられることの内に、お金の価値を見出しているんじゃないだろうか?年老いた両親の世話を人に任せられる、とか、子どもの学費の心配をしなくていい、とか、もっと身近に言えば、定食屋で値段を気にせずに注文できるとか。少なくとも自分の周囲はそんな雰囲気で、誰も「目が飛び出るほどの贅沢がしたい」なんてことは言わない。お金は幸福になる魔法というより、自分を守ってくれる防壁だ。
だけど、この考え方って、ひょっとしてちょっと怖いんじゃないか、危ないんじゃないか。だって「お金=自分を守るもの」と考えていたら、お金を使うとき、いつも「私を守るものが消えていく」という焦燥感が出てきそうだ。下手したら、サービスを提供してくれたり、物を売ってくれる人に対して「それは欲しいけど、自分を守っているもの(=お金)はくれてやりたくない……」「商売人はみんな、私の防壁を崩そうとしてくる(=お金を持って行く)悪人だ」という、呪わしい気持ちになるだろう。それってとても破滅的な考え方だ。
ポール・オースターの描く「父」もまた、そういう側面を持つ。上の引用に続いて「金を手放したくない」という思いが非常に強く、バーゲンセールを習慣に組み込み、子どもたちはそんな父親の顔色を窺って、外食では一番安いメニューを頼む……という描写がある。世の中の人々は、そんな気質のことを「ケチ」と呼ぶだろうが、その背後にはきっと「自分を守りたい」という強い思いがあるのであって、そこを責めることはできない。それは「お金以外に自分を守ってくれるものはない」という、孤独な叫びのようにも聞こえる。
個人的には「お金=楽しむためのもの」と考える人のほうが、幸せそうに見える。「お金を守るべきだ」という気持ちはよくわかるけれど、一方で「お金は価値あるものを与えてくれる」「自分を幸せにしてくれる」と考えるほうが、少しだけ、お金との付き合い方が前向きになるんじゃないか。人生には用心が必要だ、それはわかる。ただ、そればっかりではつまらなくて、時にはお金で贅沢をするのも素敵なこと、そんな風に思うのだ。