#これからの家族のかたち
草餅が食べたい。旦那さんにそう訴えると「甘味といえば洋菓子」の彼も折れてくれる。今日のおやつ時間の主役は、そういうわけで草餅だった。
笹の葉で包まれたところに木の楊枝がついている。葉っぱがあるから皿は汚れないけど、いちおう下に懐紙を敷く。小さい頃に食べたヨモギ餅と同じ、青い草の感じが口の中を駆け抜けていっておいしい。
和菓子屋で買うとき、旦那さんは栗餅を見て「これもいいなあ」と言っていた。彼の好きな甘味はモンブランである。元来、栗好きな人なのかもしれない。
「あなたが栗餅、わたしが草餅、でもいいよ」
言うと
「いや一緒に同じもの食べような」
と諭すような答えが返ってくる。
いま、家族で食卓に就くことが、それほどあたり前じゃない世の中だ。めいめいが勝手に好きなものを買って、好きな時間に食べる家も少なくない。仮に食卓にみんな揃っていたとしても「いただきます」と「ごちそうさま」のタイミングまで合わせる家庭は珍しい。
という話を、このところ『ぼっちな食卓』と『家族の勝手でしょ!』で読んでいる。どちらも同じ著者によるもので、家庭における食事の風景を10年、20年のスパンで追ったものだ。その中に、同じテーブルを囲む「時間」の話が出てくる。
「家族みんなで、一緒にご飯を食べている」と言う家庭はある。ただ実際には、誰かが先に食べ始め、終わったらさっさと席を立つケースも多い。だから厳密な意味で「みんな」が食卓が囲んでいる時間は、ひどく短い。そんな話があった。
読んでいて、マナー講師が大学に来たときのことを思い出す。客室乗務員のような恰好の女性が、外食の際の食事マナーについて話している。
「お食事っていうのは、みなさんの分がお揃いになってから、一緒に食べ始めるものです。最近では、地位が上の方々からこういうお嘆きを聞くんですね。
『近頃の若い子は、自分の分の料理が出てくるといきなり手をつけて食べ始める。他の人を待とうとしない』って。
いくら自分の分が目の前にあるからと言って、勝手に食べ始めるのは印象が悪いです。全員分が揃うのを待ってから頂きましょう」
はい。目上の方とお食事に行った際には、さすがにそれが礼儀だとわたしも思います。ただ「いついかなるときも全員分の食事が揃うのを待ち、すべての構成員が食卓に就いてから食べ始めよ」と言われたら、呆れて白けてしまう。
たぶん「さっさと食べ始める若い子たち」にも言い分はあるのだ。先に出てきた料理は、早く食べないと冷めてしまう。自分の分が来ないとき、誰かを待たせているのも気まずい。だから互いに「先食べてていいよ」と言ったりする。もちろん若い人同士なら、の話だ。
家族は、若い人同士ではない。でも目上の人とのフォーマルな関係とも違う。食卓に就く時間、離れる時間がフレキシブルなのを、自分はあまり悪いことと思えない。
うん。
と言うより、自分が小さい頃には確かに「家族全員が揃って食事」みたいな雰囲気があったのだけど、あれは堅苦しくて嫌いだった。わたしを育てた母や祖父母は、当時はそういうルールにこだわりがあったのかもしれない。
だけど自分がいい加減おおきくなったあたりで、皆いろいろどうでもよくなったのか、食卓はいたって自由になっていった。なんとなく食事の時間がかぶっていて、それぞれ好きなものを食べていて、ご飯とお味噌汁くらいはみんなに共通している、そんな風に。
そうなってからの家族のほうが、雰囲気がやわらかくて好きだった。だから「家族がバラバラなんてけしからん。いつでもきっちり一緒にいるのがいいことなんだ」と言われたら、そう思う人はそうすればいいでしょう、としか返せない。
ところで自分は結婚し、これから子どもがいる家庭を持とうとしている。これからの家族とその食卓についてどう思うか、と言われたら。これはやっぱり、一緒に食卓を囲むのがいいのかなあ、と感じるのだった。
旦那さんが食事をしているときには、自分が食べ終わっていても一緒に食卓にいる。旦那さんは、料理をしていた自分が食卓に就くのを待ってから食べ始める。そうして、彼の好みは差し置いて「同じものを食べよう」と言ったりする。
共有する、ということ。食事している時間を、あるいはその内容を。同じものを同じ時間に食べること。「同じ釜の飯を食う」とはよく言ったものだけど、きっとそういうところから「私たちは一緒に暮らす仲間/家族である」という気持ちは出来上がっていく。
家族がどんなにバラバラであっても許される時代に、ちゃんと一緒にいること。これからの家族は、改めて「共にいること」を大事にしていきたい。そんなことを思う。