「好き」じゃなくて、体の一部

お腹が空いたら食べられる程度には恵まれてきたから、幸いにして飢えたことがない。だけど、読むものがないときの禁断症状みたいなのは理解できる。あれはきっと飢えに近い。なんでもいいから──誰かのつぶやきとか読みさしの詩集とか、物語でもエッセイでもいいから──活字の流れに触れていたくなる。文章は、好きというより、手放せない嗜好品みたいな存在。

何かに中毒する人の気持ちはわからないと思ってきた。自分はギャンブルにも酒にも煙草にものめり込んだことがない。アニメオタクでも舞台愛好家でもない。「それがないと生きていけない」なんて感情は、よく理解できないと思っていた。でも、活字に対する自分のこの欲求を淡々と観察していると、そういうことなのかもしれないな、と思う。文章が供給されないことへの苛立ちとか、欲求不満、焦燥感みたいなもの。

少し本を読むのが好きなくらいで、それを中毒みたいに言うのは大げさかもしれない。だけど、1時間に満たない散歩に出たときでさえ、終盤には「家に帰って何か読みたい。言葉が足りない」みたいになっているから、依存症とほとんど変わりない。幸い読書という趣味は、体を害するわけでもなければ、ギャンブルみたいにお金を呑むようなものでもなく、また違法でもない。好きなもののジャンルが合法かつ健全だというのは、きっと幸運なことなんだろう。そうでないものを愛して破滅していく人のことを思えば。

とはいえ。中毒する人間の業が深いのは、どこの世界でも同じことで。

今日も本屋に寄って、マイバッグいっぱいの本を買ったので、そろそろ本の置き場に困るようになっている。大きな声では言えないけど、靴箱もトイレの棚も、引っ越して間もない内に本棚と化した。当然、床にも本が並べられている。机の上は言うまでもない。

物が少ない暮らし、ミニマリスト生活に憧れはあったけど、この様子では無理だろう。複数の図書館から借りた本、紙の辞書に電子辞書、今まで集めた資料の数々。仮に全部を手放したところで、また収集が始まるだけだ。活字好きに生まれついたら、ミニマリストは諦めるしかない。

何かが好き、と気軽に言える人が羨ましい。ハッピーなだけの「好き」という感情が、羨ましい。自分は何かを好きになるといつも、それが体の一部になるまで深くのめり込む癖がある。そういう意味では、中毒し執着していることはあっても、純粋に好きなことなんてないのかもしれない。買って帰ってきた本の山を見ながら、そんなことを考えてしまう。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。