他者のための言葉
炎上の当事者の話を聞いた。某タイツ屋ではなく別件だけれど、炎上する側になってしまった女の人だった。彼女の口ぶりからは、仕事を愛していること、そしてだからこそ炎上が辛くて、それを引き起こしてしまった自分を責める気持ちが伝わってくる。何もできないけれど落ち着いてください、と伝えるしかなかった。
不特定多数の人の悪意は怖い。たくさんの人が当事者に暴言を吐き、脅し、殴りつける。皆「自分は一発しか殴っていない」と言うかもしれないけど、それを百人や千人でやったらどうなるかは考えるまでもない。彼女のしたことが何であれ、殴り殺されるほど悪いことじゃない。
結果的には、それほど大事には至らなかった。その人も落ち着きを取り戻し、最初は「明日からどうしよう、もうダメだ」と取り乱していたところから立ち直った。よかった、と思う。こういうとき、仕事を愛し責任感を持っているほど、他人の悪意をまともに受けてしまう。その構造がはっきり見えて、悪い意味でドキドキした。
そんなとき、どんな言葉をかけたらいいのかわからなくなる。本人が「自分が悪い」と言っているときに「あなたは悪くない」と言っても届かないだろう。だから「責任はあるかもしれないけど、死ぬほど悪いことをしたわけじゃない」と伝えるのが精一杯だった。
炎上が社会的にいいか悪いかを論じたりはしない。私にとっては、目の前のその人がすべてだった。誰が彼女に向かって石を投げ、それがどれほど正当性のあることだったとしても、これ以上責めるのは間違っていると思った。それだけだ。
他者のための言葉はすなわち祈りである。そんなことを言っていたのはレヴィナスだっけ。ユダヤ系フランス人、親類縁者を皆ナチスに殺されたレヴィナス。他者のための哲学を一番に掲げて止まなかったレヴィナス。他者のための言葉。
他人に向けた言葉は、届くか届かないかわからない。届いたとしても、それが深いところまで達するのか浅く受け止められるのか、それを支配できる人は誰もいない。他者に向けられる言葉はすべて、届くかわからない祈りのようだ。それでも人は祈る。
炎上の際に投げられる言葉は、どれも祈りとはほど遠い。それは他人ではなく、自分の正当性を示し、自分の暴力を正当化する、自分のための言葉だ。どれほど正しいことを言っていようがそれはエゴだ。そんなことを思う。
「一生の仕事と思っていた、大切な仕事なのにこんなことをしてしまって」と取り乱す、その人のことを、これから何かが燃え上がるたびに思い出すだろう。世の中に、祈りと呼べるほどの言葉はほとんどない。