見出し画像

優しい権力の時代

キリスト教のたとえ話の中に、羊の話がある。100頭の羊を育てる牧師がそのうち一頭を失ったら、残りの99頭を置いて探しに出るというもの。なんだかいいストーリーだ。道を外れたあなたのことも神様は見捨てませんよ。そんな優しさを感じる。でもそこに、どこか不穏な気配を嗅ぎ取る人もいる。

わたしはこの話を引用する牧師たちの説教を聞くたびに妙な拒否感があった。何だろうか、その細心な「配慮の意志」が、いわゆる「問題児」をかならずや正常状態に戻そうとする執拗な権力意志のように感じられるときがあった。

──コビョングォン『哲学者と下女 日々を生きていくマイノリティの哲学』今津有梨訳、インパクト出版会、2017年、107頁。

確かにそうも聞こえる。はぐれた一頭を放っておかない。どこまででも探しに行く。「はぐれたまま」を許容しない。いなくなった一頭は必ず見つけ出さねばならない。その執念は愛なのか過干渉なのか、愛ゆえの優しい支配なのか。最後のが一番近い気がする。

フランスの哲学者フーコーは、そんな優しい支配に名前をつける。一頭の羊を探す牧師になぞらえて「司牧権力」とか「牧人型権力」と言う。群れを離れた一人のことを決して放っておかない、優しい権力。私たち個々人の生活に入り込んで、丁寧にケアしてくれる。そして私たちの生き方をうっすら決めて行く。

例えば健康診断。思えば小1の頃には始まっていた。身長や体重を測り、生徒たちは背の順に並ぶ(なんで?)。予防接種を受ける年齢になると、学校に医師が来たり家に通知が来たりして注射を打つ。

権力は私たちを見守っている。悪いところはないですか、血圧は正常ですか。身長、体重はどうですか。生活習慣病にかかっていませんか。メンタルに不調をきたしたら、こちらの窓口にご相談を。そうやって一人一人をケアしてくれる。

「権力」と言うと普通の人にはない暴力的なパワーを想像しがちだけど、そうじゃない。丁寧に優しく尽くすような支配の形もあって、私たちが日常的に晒されるのはこっちだ。権力に罰されたり暴力を振るわれたりするより、生活を気遣われるほうが多い。そうして少しでも「異常」が見つかればそれには名称がつき、どうにか治しましょうということになる。はぐれた一頭の羊を追いかけるように、望ましい値から外れたものは優しく「正常」に引き戻される。

いつだったか大学の健康診断で、自分の身長体重を見た医師が「若い女の子にありがちな無理なダイエットをしていない。中肉中背でとてもいい」とコメントした。言われながら、健診のなかった時代にはこんなことなかったんだろうと思った。誰が身長何センチで体重何キロで、それが理想的な数値かどうか、まったく気にしない時代もあったはずだ。今はそうじゃない。痩せすぎだったら危険値と見なされ、肥満だったら指導が入る。

中学校でひどい顔をしていたときには、スクールカウンセラーを紹介された。というより「〇日の〇時に予約とったから」と言われた。カウンセラーは守秘義務があるものの、相談内容を教育委員会に報告するのも仕事のうちだ。自分の話したことだって、知らない間に一個の事例として「上」に伝えられていただろう。権力は、人々の身体にもメンタルにも気を配る。配ってくれる。

それがいいことなのか、うす気味悪いことなのか、決めてもあまり意味はない。ただ「そういう時代」だというだけで。「ちゃんとワクチンを打ちましょう、打った人もきちんとマスクをしてください」の呼び掛けを聞きながら、そう言われるのが当たり前の世の中なんだなと思う。誰も羊を放っておかない、優しい権力の時代。

いいなと思ったら応援しよう!

メルシーベビー
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。