生きて生きよう
部長が談笑しているのが聞こえた。
「ウチのにも言われるよ、『そんなにガンプラ買って何にするのよっ!』、何って、作って飾るだけだよ。『死んだあとどうするのよ』って、捨ててくれよ、なんなら棺桶に入れても」
ガンプラ。ガンダムのプラモデル。好きな人は永遠に好きな、男の子の憧れ。
オフィスの風通しがよいので、会話を耳に挟んだ課長にも伝播する。ウチも言われるよ、そんなに買ってどうすんだ、って。生涯で煙草にかけた値段とどっちが高いんだろうな。
「『あなたがガンプラを買わなければ、あのベンツが買えたんですよ』、うるせえよっ!」
隣のおじさんがそれを聞いて無遠慮に笑う。
部長は20代のころ恋愛結婚をして、奥さんとそのまま連れ添っている。うちの両親みたいなお見合い結婚(たった一回会っただけ)と違って、互いに性格をわかって結婚した。そんな夫婦でも、理解し合えないことはあるんだなあと思う。
そんなに買ってなににするのよ!
なにって作って飾るだけだよ。
いい会話だ。夫婦の会話だと思うとなおさらいい。お互いわかり合えなくても、わかり合えないなりに一緒に暮らしている感じがいい。
SNSを見ていると「テレビでよく『夫の趣味の物を勝手に捨てる』妻が出たりするけど、趣味を大事にしてくれないパートナーはマジでよくない」という話が定期的に流れる。そんなにテレビでやってる話題なんだろうか。
部屋にあった小型のを1000円で売り払って以来、本当にテレビを観ないから知らない。だけどそういう人は、きっとどこかに実際にいるのだろう。誰かの趣味を理解できず、大切な物を捨ててしまう人。
母方の祖母がそういう人だった。母は小さい頃、憧れの漫画家の初版本を祖母に捨てられた。すっかり大人になった今でもまだひきずっている。「あの作家の、『初版本』よ……」。この話をするたび、母は子どもに戻って泣きそうな顔をする。
誰かにとって、あるものがどれだけ大切か。そんなの家族でも夫婦でも、完璧に理解することはできない。捨ててもすぐ忘れられる物かもしれないし、大人になってもひきずるくらい大事なのかもしれない。
「何にするのよ?!」と叫びながらも、無碍にはしないこと。理解できないなら放っておくこと。夫婦円満の秘訣は、そのへんにあるのだろう。
人間、互いに100%わかりあえたりしようものなら、もう一緒にいられなくなる。逆に一切、理解し合えない人と連れ沿うのも難しい。両親はそれで離婚した。父は母が理解できず、母には父がわからなかった。仕方のない話だ。
部長夫婦は、そのへんの理解と非理解のブレンド具合がちょうどいいんだろう。ガンプラかあ。本当に棺桶に入れるのかな、と不謹慎なことを思う。
むかし「NO SOCCER, NO LIFE(サッカーがなきゃ生きていけない)」を「NO LIFE, NO SOCCER(生きてないとサッカーはできない)」と書いた話があった。そうねえ、とうなずいてしまう。
生きていないとガンプラ作れない、もまたしかり。ノーライフ、ノーガンダムライフ。部長には長生きしてほしい。もちろん課長にも、その奥さんたちにも。
自分ならなんだろう。ノーライティング、ノーライフ、かなあ。死ぬのは悲しくないのに、死んだらもう何も書けないって思うと泣きたくなる。そんなの嫌だから、転じて死ぬのも嫌だ。
生きていられるっていうのは、ガンプラを作れることであり、配偶者とやいのやいの言えることであり、冗談を飛ばせることであり、歩いて喋って談笑し声をあげて笑って、スマホいじりながら転んだり、明日食べる分のおにぎりを作ったりできる、そのすべてであって、自分の思考はやっぱりあの哲学者に戻ってくる。
おそらくは「ノーサッカー、ノーライフ」の書き間違いだった「生きてなきゃサッカーできない」は、実は何も間違っていなくて、そうだよ生きてサッカーしようぜという気になる。北のほうで起きている戦争と、むかし読んだ本を思い出しながら。