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曖昧だけど、そのままでいい

 「記憶ってだんだん薄れていくじゃないですか」。
 
 読んでいる本の中にこんな一文が出てきた。介護に携わる人たちが、患者さんを看取ったときの話だ。仕事とはいえ、関わっていた人が亡くなるという事実は大きい。
 
 ケアの仕事は、公と私の区別がつきにくい。それは人の生とか死にダイレクトに関わるからで、これは「死」のほうの話になる。ずっとケアしていた人が亡くなるということ。ついこの間まで体温のあった患者さんは、もう血の通わない人になり、ベッドから姿を消していく。
 
 人の死を受け入れるって、どういうことなんだろう。
 
 自分にも他界した身内はいる。最初は涙も出ないときがある。あまりに突然の死だと泣く余裕もない。ただ呆然として、でも葬式は出さなきゃならなくて、現実的な雑務に振り回される。それからまたしばらくポカンとして、それからやっと泣けるようになる。
 
 「死んだ」という事実は重い。単にいないだけじゃない。その人と過ごす時間は、もうこの先ずっとないのだ。文字通り、永遠に。いままでは「一緒にこの世にいた」時間のほうが長かったのに、やがて「相手のほうが天国(地獄)にいる」時間のほうが長くなる。
 
 その時間の長さが逆転するにつれて、徐々に記憶も薄れていく。
 

記憶ってだんだん薄れていくじゃないですか。で、薄れていくことをなんだろう、寂しいと思わなくなってきてますね。自分の中でたぶん、それは消化されて、きちんと消化されてあのう、受け入れられてきてるってことなんじゃないかと私は思うのだけど。……その頃の気持ち、それを言った気持ちがどうかっていうのは、う~んとなんて言うんだろう。上手く、上手くこう表現しにくいんだけれども。……自分の中でこうなんだろう、イメージとしてすごく静かにこう、自分のこう気持ちの中でその人の存在があったっていう記憶とかがこう、静かぁに沈んでいくというか、底の方でこう積もっていく、うん、そんなイメージがあるんですわ。よく、なんだろう、海の中、海の底って、本当の深海の方って海の中で雪が降ってるみたいな……すごく静かに音もなく降り積もっていくっていうのがあって、それに近いイメージが自分の中にはあるんですわ、人の死を受け入れるっていうことって。で、最終的に完全に沈む心の中の底のところで、静かに積もっていって初めて受け入れられるのかなぁって。

(※強調は筆者による)

西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』講談社、2021年、103-104頁。


 看護ケアに関わる人の肉声が、本の中にはそのまま書かれていて、ああそうだよなあと思う。記憶が薄れていくことを寂しいとは思わない、その人の存在が、深海に積もる雪みたいに深いところに降り積もって、やがて誰かが永遠にいないことを、受け入れられるようになっていく……。
 
 この本(『語りかける身体 看護ケアの現象学』)では、当事者の語りができるだけそのまま、語られた通りに記述されている。だから上の引用でも、話し言葉の「こう」とか「う~んと」とか、言葉をつむぐあいだのわずかな沈黙が見て取れる。
 
 いやそういうものだよな、と思う。すごく割り切れない感じ。スパっと語り終えることのできない、あいまいな感じ。「これはこうです」とはっきり言えない。はっきり言えないことが、むしろ適切であるような。「死」ってそういう話題だ。
 
 書いた側がどこまで意図していたか知らない。でも「語り手の言葉を、できるだけそのまま書き留める」試みは成功している。あいまいなものを、あいまいなまま受けとめること。それは話し言葉にしかできないのかもしれない。
 
 う~ん、どうだろう、えっと、なんかこう……。
 
 そうやって立ちどまりながら、一歩進み、一歩戻りながら考えて語る。それは確かにあいまいだけど、失いたくないあいまいさだと思って。


アマゾンのレビューも、読書感想としてよかった。


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