哲学ノート⑨その義務、誰が背負う?
誰かが権利を主張するとき、それを巡って起こる義務を誰が背負うのだろう。そういうことは、いままでイマイチ議論されてこなかったんじゃないか。そんな論文を読んでる。
例えば、働く女性の育休や産休の権利を認めること。それ自体はいい。だけど、その分の仕事の穴埋めを誰がするのか?多くの人は、女性の権利について肯定的だし、それを進めることがいいことだと皆思ってる。だけど、それに伴って発生する事態を誰がどう収拾するのか?そういうことは、あまり大声では語られない。
あるいは障害者の権利を拡大すること。前に、車いすの人が事前に申告しなかったせいで、飛行機に乗れない事件があった。あるいはレストランに入れない、なんていうのもあったか。障害者ばかりが、申告の負担を強いられるのはおかしい、健常者と同等の権利を獲得すべきだ──それはわかる。だけど、その申告が亡くなった分の負担を、誰が義務として背負うのだろう?
権利を声高に叫ぶ声は聞こえるけど、それを巡る義務を誰が負うのか、そのあたりの議論はあまり聞こえてこない。その「誰」という主体に着目した人、オノラ・オニールが、論文の中では紹介されている。
オニールによれば、権利についての言説は、自らが特定の権利を保持していると信じる人々にとって高度にアクセス可能であるが、しかしそれは誰が対応する義務を有しているのか不明確な場合においてもそうであるという点で問題がある。(※1)
うん。自分は権利を持っている、と信じる人は、権利についての話題に敏感になるし、そういう話題に触れる手段もある。だけど、対応する義務を誰が背負うのか、そもそもわからないことも多い。よく見る光景という感じがする。
権利を唱えるのは大事だけれど、その背後で発生する問題をどう解消するのか一緒に考えないと、運用に支障を来たす。一部の人は、まるで自分たちの権利を唱えたら後は誰かがなんとかしてくれるという「丸投げ」に近い発想を持っている。それだとうまくいかない。社会は皆が繋がり合っている場所だから、丸投げしたものは必ず自分へのしわ寄せになって戻ってくる。大事なのは、権利を持つ人よりも、その権利を保障できる人なのだ。
オニールの観点からは、権利の言説にとって最も重要な聴衆とは、権利保持者ではなく、権利の尊重を制度化し、保障できるような聴衆なのである。
(中略)
(…)たんに権利に訴えかけることは、誰が対応する義務を負うのかという主体の問題を回避してしまう。(※2)
(続)
※1:山田祥子「グローバルな正義の主体の語り方」『思想』no.1155、岩波書店、2020年7月、122頁
※2:同上