架空の身体を求めて
お世話になっている店で新札を出せたときに少し気分がいいこととか、初夏の街でツツジを始め花が咲き誇っているのが美しいので、簡単に「これを作ってみせる神様ってなんて偉大」と思ってしまうような単純さとか、そういうものを抱えて今日を終える。
一日にたくさんのことを考える。そのうち表に現れてくるのなんてほんの一握りだ。その意識に上ってくる/こないを、人はどこで決めているんだろう。本当は、花が咲いているだけじゃなかったかもしれない。同じ景色の中に、ランニングしている人もいれば親子で散歩しているらしき2人もいて「不要不急の外出をするなんて」と怒ることだってできたのかもしれない。
あるいは、見落としているだけでもっと美しい光景を見ていたのかもしれない。本当は、この時期には滅多に見られない貴重な植物の開花を見ていた可能性だってある。花々に詳しくないから「咲き乱れていて綺麗」とだけ思って見ている、そういうこともあるだろう。
「同じ体験をしても、人によって得るものが違う」とよく言う。それは意識に上るものが違うということで、意識に上るものを選別する基準が違う、ということでもある。綺麗なものが大事だと思えば、それに気持ちが向いて、悪を見つけて通報するのが大事だと思えば、風景もその気持ちに従って無意識のうちに切り取られる。
「人は本当は、あらゆるものを知覚できる。だけど、そのすべてを拾っていたら生活に差し支えるだろう。人は自分に必要なものだけを、取捨選択して生きる力がある」。そんなようなことを言ったのはフランスの哲学者ベルクソンだ。身体の役割は「世界を自分の役に立つよう切り取ること」「人が察する膨大な情報の中から、生命に関わるものを抜き出してくれる」こと。知覚するのが仕事ではなく、膨大な知覚を制限し、編集するのが身体の仕事だ。彼はそう書いた。
この「膨大な情報」の部分に、インターネットで得る情報を当てはめたらどうなるだろう。ネット上に氾濫する無数の知識を、自分なりに編集し切り取る身体って、オンライン上に存在するのだろうか。
例えば「これを買ったあなたにはこれがおすすめ」みたいに、個人向けに情報を編集して見せる仕組みは出てきている。だけど「あの情報は有害だ。こっちのは無害だから摂取してもいい」みたいなことはできない。人が初めて食べるものを前にしたときの「これは食べてよいものかどうか?」ととりあえず匂いをかいだり、かじってみたりするような「お試し」の機能がないまま、いきなりナマの知識が向こうから飛び込んでくる。嘘か本当か、自分にとって必要かどうかを選別する基準が確立されていない。
ネットは身体を持たない。身体が持っている機能もまたない。「オンライン環境は非常に発達していてネットは成熟期にある」と思っている人がいるなら、それは嘘だと言いたい。身体の延長として使えないものは、何だってまだまだ未熟だ。架空の空間である種の身体(意味のある制限)を獲得していくことが、きっと本当のネットの成熟なのだと思うのだけれど。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。