お国自慢はいらない──ふるさとを愛する理由
お国自慢はいらない、日本一尽くしもいらない。他に誇るべき何物もなくとも、故郷はかけがえのない大切なものだ。故郷とはそれぞれの人が広い世界に身をさらし、物を見たり感じたり行動したりするときの、母胎となる場所である。
赤坂憲男『東北学/もうひとつの東北』講談社学術文庫、2014、249頁
故郷について考えるとき、赤坂氏のこの考えは大事な軸になる。故郷や祖国を愛するのに、特別な理由はいらない。すごいから、一番だから、何か魅力があるから愛するのではなく、ただ自分の故郷だから。大切に思う理由はそれで十分だ。それが、自分を育んだ場所に対する自然な姿勢なんじゃないか。
時々ことさらに「○○があるから、地元はいいところだ」「××が優れているから日本は素晴らしい」と言う人がいるが、それは危うい愛し方だと思う。その○○や××という条件がなくなったら、いいところでも素晴らしいところでもなく、したがって愛する理由もなくなる。そういう風に聞こえる。だけど故郷や祖国は「自分の母胎となる」点に意味があって、別に「その場所が優れた点を持っていれば自分の価値が上がる」というようなものではないはずだ。
もちろん、故郷や国が愚かなことをしたら悲しく、優れたことをなせば誇らしい、その気持ちはわかる。だけど、自分が生まれ育った母胎として価値を持つことに変わりはない。「他に誇るべき何物もなくとも、かけがえのない大切なもの」という赤坂氏の定義は、ふるさとというものの本質だろう。
最近は、その本質を見落として「○○だからウチは素晴らしい!」と言う人が増えた。長所のない故郷のことは、まるで誰も愛することができないみたいに。ふるさとを自分の母胎として健全に愛することができない世界に、自分はいま住んでいるのだと思う。
そういう風潮は個人レベルにも及んでいて「○○だから私は素敵」「××だからあの人が好き」と、愛する理由を掲げる人たちが増えてきた。インスタグラムのフォロワーが多いから、美人だから、あれを持っているから、これをしているから、だから素晴らしい。でもその背景にあるのは「長所を持たない人間には価値がない」という暗黙のメッセージだ。価値があることを証明できなければ無価値だと見なされる、そういう危うい思想。
本当は、何も突出したところがなくたって人間には価値があり、私たちが「自分にはこのような価値があります!」と手を挙げてアピールできるようなものは、それほど本質的ではないはずなのだ。故郷は故郷であるというだけで意味があり、人は生きているだけで価値がある。綺麗事と言われそうだけど、でも本当のことだ。
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