少量の毒はきっとおいしい
シナモンを買って、ミルクティーに入れるようになった。温かいものが恋しい季節だ。普段、砂糖は摂らないけれど、こういうときはちょっと多めに入れる。味が引き立っておいしくなる。
砂糖も塩も摂り過ぎれば毒だけれど、料理に少量使うくらいなら罪にならない。時と場合に応じて、同じものでも毒にもなれば贈り物にもなる。今日はそんな話。
Gift「ギフト」という単語を見れば、大抵の人が「はいはい」と言う。プレゼントのことでしょ、贈答品をギフトって言うわよね、それくらい知ってるわよ。この時期よくカタログでよく見る単語でしょう、あたしも知り合いと義理の実家に贈らなきゃならなくて。
そう、それは英語の話。ドイツ語だと、まったく同じ綴りで「毒」という意味になる。発音は同じく「ギフト」。
そんなの偶然でしょ、と言われるかもしれないけど、ドイツとイギリスは同じアルファベット語圏で、語源が同じらしき言葉がたくさんある。英語の「May(メイ=五月)」はドイツ語だと「Mai(マイ)」、ドイツ語の「mein(マイン)」は英語の「my(マイ)」。「ギフト」だって、最初は同じひとつの言葉だった可能性が高い。
どうして贈り物が毒になるのか?あるいは、なぜ毒が贈り物になるのか?
それは例えば、よかれと思ってやってあげたことが相手をかえってダメにすることがあるようなアレだ。喜んでくれるだろうと贈り物をしたけど、相手にとってはありがた迷惑だったとか、そういうこと。そういう出来事の中で、贈り物は毒になる。
あるいは、嫌味を込めて「素敵ね」と褒めたら、裏の意味に気づかない相手がすごく喜んだ、こんなのは毒がプレゼントに化けた例だ。辛いもので舌を痺れさせてやろうと激辛の料理を出したら、相手はそれが大好物だったとか、そんなのもよい例になる。毒は時として贈り物に化ける。
それが良いものであれ悪いものであれ、相手に「贈られている」点では同じだ。「ギフト」の根本の意味は、そういうところにあるんだろう。それをいい意味で取ればプレゼントで、悪い意味で取れば、人を害する毒となる。贈り物の本質。
これからクリスマスとお正月で、贈答品ラッシュが始まる。あちこちで「ギフト」の文字を見るたびに、その両義性についてチラッと考える。贈られる物が、いつもいい物とは限らない。だけど「贈る」という行為そのものが大事なのだとしたら、それが毒だろうが薬だろうが、どちらでもいいのかもしれない。そんなことを考える。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。