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不安に振り回されない
人生を豊かなものにしたいと頑張ることは、本当に素晴らしいことだと思います。ただ、本当はそれだけで十分なんです。だから、自分を必要以上に不安にさせることも、過度に苦痛を与えることも、必要はないのだということを最近思うようになりました。
嫌われたらどうしようと考えなくていいよ
自分は人と、何処かずれているように感じていました。僕には、常識というものが分からなかったから。
「それ、常識でしょ!」
そう言われる度に、僕は深く傷ついてたんです。一体全体、常識というものは、いつ何処でみんなは覚えたんだろう。そんな風に疑問を持っていました。そんなことを、友人に話すと「お前って、歪んでるな。」って、笑って言われました。
何処がおかしいのか、分かりませんでした。だから、その時はムッとしたんです。でも、そうなんだと、その時から自覚するようになりました。僕はどうやら、何処かで歪んでしまっているらしいのです。
自分が正解だと思うことは、ことごとく否定されていく。そんな現実を目の当たりにしたのでした。
目上の人のアドバイスは、ちゃんとメモを取らないといけないらしい。僕は、ただ人が話している時は、相手の顔を見ることだって教えられてきたから、そうしただけなのに。
「お前は、メモを取らないのか?」と𠮟られた。
「えっ!メモを取るんですか?」って聞き直すと、
「そんなの常識だろ!」と、怒鳴られた。
他にも、胡麻和えの胡麻は黒ではなく白らしい。先輩からつがれたお酒は、飲み干さないといけないらしい。プロ野球は地元を応援しなければいけないらしい。
そういったことを、たくさん言われたのです。それまで、自由だった僕は行き場を失うくらい、常識がないと叱られたのです。そのせいで相手にされなくなったこともありました。嫌われてしまったんです。その度に、やはり深く傷つき落ち込んだんでのでした。
いつしか、自分の意見や気持ちを言うことが出来なくなってしまいました。あの時みたいに嫌われたら、どうしようという気持ちが一番に頭をよぎるから。黙っていれば、それでことが済む。相手に合わせてさえいれば、ことが上手くいく。それを、身を持って学んだんです。
でも、それが、何だか悲しかった。子供の頃は、あんなに小学校で手を挙げて発表することが出来ていたのに。たまに、とぼけたことを言っては、クラスのみんなに笑われても、何にも気にならなかったのに。どれだけ、間違っても構わなかったのに。
なのに、その時は不安で不安で仕方ありませんでした。もし、意見が食い違ったらどうしようって、失言して嫌われたらどうしようって。
その時ほど、自分に嘘をついたことはありません。その時ほど、自分の気持ちを抑え込んだことはありませんでした。
僕を救ってくれたのは
そうしているうちに、僕は自分に無関心になっていました。無関心ほど残酷で悲しいものはありません。何をしても楽しいと感じられませんでした。どの物語をみても、冷めた目で見ていました。なのに、ひとりになると、どうしたものか、涙がこぼれてくるのでした。人と接することも怖くなっていました。
そんな時に、子供の頃から好きだった、スヌーピーの言葉が救ってくれたのでした。
僕のことを好きじゃない誰かさんのことで
くよくよする必要はないのさ。
僕は、僕を大好きでいてくれる人を
大好きでいるのに忙しすぎるから。
君の笑顔しか知らない多くの友達よりも、
君の涙を理解する一人の友人の方が
はるかに価値があるよ。
こうした優しい言葉に、僕は、時々癒される。渇き切った心を潤してくれるような感覚になれるものです。
その時に、気づいたんです。僕にも僕のことを大切に思ってくれる人がいる。その人は、僕が何を言っても、嫌いになったりはしない。むしろ、心配してくれていることを。
僕の気持ちはふと軽くなったのでした。
もう僕は、完璧を目指さない。ありのままで行こうと心に誓ったんです。それでも、不安は消えることはありません。気がつけば、完璧であるとする自分がいるから。未だに、右往左往している自分がいるのも確かです。
でも、それでもいいと思えるようになれた気がしているのです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー