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心の満たし方
おばあちゃんと煮豆
大好きだったおばあちゃん。特急電車で一時間、さらにそこからバスに揺られてで一時間くらいの場所におばあちゃんの家がありました。小学生の頃の僕は、長期休みになる度に、自分ひとりで通ったものです。
僕本来の性格からすると、一人で電車に乗るだけでも、不安で躊躇しては断念してしまうはずなのに、その長い道のりをいつもワクワクしながら電車に乗っていた記憶しか残っていないのです。
それくらいおばあちゃんのことが好きだったのです。
色々あって僕は両親との折り合いが悪く、母とはとくに険悪なんです。ですので、なおさらではありますが、おばあちゃんだけが、どんなときも僕の味方でいてくれていたような気がしていたんです。
僕がうつ病を患ってしまって入院したときも、おばあちゃんだけが心配してくれて励ましのの電話をくれたのです。「無理をしないようにね。」と、言ってくれたことが、優しく包み込んでくれたような気持ちになれて、荒れた心を落ち着かせてくれたのでした。
後から聞いた話によると、その時のおばあちゃんもまた、重い病気に掛かってしまっていて、手術の直前だったらしいのです。本来なら、僕のことなんか構っている余裕もないはずなのに、自分のことで精一杯なはずなのに、思ってくれたことが何よりも嬉しかった。本当に、心に染みたんです。
そんなおばあちゃんとの思い出がひとつあるのです。おばあちゃん家に行くと、いつも僕の大好きなものばかりのごちそうが並んでいました。そのどれもが本当に美味しかった。その中に、いつも煮豆が用意されていたんです。当時の僕は、何故か煮豆が苦手でした。何も知らなかったおばあちゃんは、それを知らずに作ってくれました。そこで、嫌いと言えばおばあちゃんをがっかりさせてしまいそうで、無理やり頬張って美味しいと喜んでみせたんです。おっばちゃんは、そのことを憶えてくれていたんです。当然のことなのですが、僕が煮豆が大好きだと勘違いしてしまったんです。ですので、僕が来るたびに、煮豆を作ってくれていたんだと思います。
僕が煮豆が嫌いだったから、強く印象に残っているのです。でも、そのことが、おばあちゃんが僕のことを思ってくれていることを実感するものになりました。
その気持ちが、何よりも嬉しかったから。
その思いに気付いたときに、嫌いだった煮豆さえも大好きになりました。
心の満たし方
ふと、その時の記憶を思い出して、今でも時々ですが、自分で煮豆を作ることがあります。時には、スーパーのお惣菜で煮豆を買うこともあるのです。でも、どんなものでも、煮豆を食べるたびに、心があたたかくなり満たされたような感覚になるのです。
何でもない煮豆かもしれない。でも、僕にとっては思い出の煮豆。おばあちゃんの思いが詰まったものなんです。
今は、もう会うことは出来ないけれど、思いを受け取ることは出来るのです。
僕は思うのです。何でもないことでも、普遍的な日常の生活の一部でも、思いを乗せる事で、自分を満たすことが出来るものなんだと。
きっと、それには自分の心を大事にしないといけないとも思いました。良いことだけではなく自分にとって不都合なことも、ひっくるめて全ての感情を大事する必要があるのです。喜びだけでは、その喜びが当たり前になって忘れてしまうし、悲しみや苦しみだけだとあまりにも辛すぎるから。
おばあちゃんとの思い出もそうでした。喜びや嬉しいことばかりじゃなかったのです。最期の別れのときは、何よりも悲しかったし辛かった。だから、かけがえのないものになったような気もするのです。
自分の心を大切にしているからこそ、誰かの思いを受け取ることが出来るのです。だから、何でもないものがかけがえのないものに変わるのです。
今日は、僕の誕生日だから、大切なおばあちゃんとの思い出を話そうと思いました。
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メルシー