小説を書くきっかけとは何だったろうか
この本に出合っていなかったら、この登場人物に出会ってなかったら、或いはこの作家に出会っていなかったら、自分で小説を書こうなどとは思わなかっただろう。
そういうエピソードは世の中にどれだけあるのだろうか。
自分もその中の一人である。
小学生か中学生の時に読んだエドガー・アラン・ポオの『モルグ街の殺人事件』で優れた洞察力を持つ素人探偵に名推理とあまりに意外な犯人に度肝を抜かれた。
そしてフリーマーケットで買って読んだジョン・W・キャンベルのSF小説『影が行く』の児童書版『なぞの宇宙物体X』は、のちにジョー・カーペンターにより『遊星からの物体X』として映画化され、自分が読んだ小説が初めて映像化されたのを観て興奮をした。
この二つの体験と、星新一やSFのショートショートを取り扱ったラジオドラマが僕の原体験だと思い込んでいた。
それは間違いないし、そう言って過言であることはない。
しかし、実際、本そのものに興味を持ったのはどうであろうかと考えたときに、上記の体験は「面白い本もある」と思った体験であって、本そのものに興味を持った体験ではなかった。
本に興味を持つとはいかなることなのか。
それは音楽を聴いている人が「鳥肌が立つ」「感動で涙が出る」「体が勝手に動き出す」「気分が晴れる」といった体験をしているのに対して、本を読んだ人の感想は、実にあいまいであるか、その体験を理解するために必要なリテラシーが多い。
本を読んでいるときの没入感は、それを体験したことがない人にとっては感覚的にわかりにくいし、映画やドラマは視覚に訴えてくるし、音楽や効果音による聴覚効果も無視できない。
しかし本を読んでその世界の姿かたちを想像し、登場人物のしぐさや口調、声質まで想像して本を読むことができるというのは、日常的なインプット、アウトプットのレンジを広くしていないと、なかなかに難しいと思われる。
だから小学生に読書感想文の宿題を出すがごとき無理やりに本を読ませるというのは悪影響しかないと僕は思っているのだが、それはまた何かの機会に語るとしても、本を読まない人が読むきっかけというのは、読んで面白かったからとなれる前に、読んだらどうなるかがイメージできないのだ。
そしてエブリスタの「運命の一冊」というコンテストにおいて、まったく筆が進まずにいたのだが、ひとつの光明を得て、一気に締め切り日に書き上げた。
人が本を読んでいるところをまじかで見るとなれば、それは電車の中だろう。もちろん図書館は本を探し、借りて読む場所だが、そこで本を読むのが楽しすぎて小躍りしている人などまず見ることはないだろう。
レコードショップなら、そこで流れる音楽に「おっ! これ好きなアルバムだ。やっぱりファーストが一番いいよね」などという会話が聞こえたり、実際小躍りする人もいなくはない。迷惑ではあるるが。
この『運命の一冊』というコンテストに『運命の一冊』とど直球のタイトルを付けたのは、もう、それ以外いタイトルのつけようがなかったからに他ならないが、ぜひ読んで見て欲しい。
それは中学一年の夏。
学友たちとちょっとした冒険に出かけたときの話である。
僕はそこで一冊の本を読んでいるお姉さんと出会った。
その本のタイトルも、作者も覚えていない。なんと書いてあるのか読んでみたのだとは思うが、知らないことは覚えられないし、記憶に残っているのは、もっと別のことだった。
そういうお話です。
でも、間違いなく、僕が本というものの、物語を綴った小説に興味を持ったのはこの時でした。
子供とも大人とも言えない時期の体験。
運命の一冊との出会いであり、あの体験があったからこそ、僕は物書きになろうとした。
短いお話なのでぜひ読んでみてください。
特に、こどもの国へ行ったことがある人、昭和の時代に仲間たちだけでちょっとした小旅行、冒険をした人たちにはぜひ読んで欲しいです。