悟性と理性の話
理性がなくなると過ちを犯す――理性をなくしてあんなことやこんなことをしてしまったという話はよく聴きますが、さて、僕の理性はそうやすやすと喪失しないので、『理性をなくしたふり』をして……。
いやいや、そんなことはどうでもいい。
理性をなくし、欲望に走る。ついつい性欲を想像してしまいますが、ダイエットを成功させるのに理性が必要だとすれば、それを妨げるのは食欲ということになりましょうか。
勉強しなきゃという理性をゲームがしたいとか、もう眠りたいとか、ドラマの続きが気になってしかたがないとか、友達とLINEでやとりしたいとか、それらすべて欲望によって妨げられているのでしょうかね。
そもそも『~をするよりも~をすべきだ』と働きかけるこの理性の招待とは何でしょうか?
理性、つまり抽象的認識を持たず、直接的認識(悟性・understanding)のみを持つ人間以外の動物は、現在目の前に現れている客観に対応して行動をするに限定されている。ツバメの営巣やクモの巣を作る行動は、一見抽象的認識に基いて行動しているかのように見えるが、本能によって発生したものである。この点は、我々人間が子作りをする相手を選ぶ際に、抽象的説明とは関わりの無い本能によって、健康で優良な子孫を残せるように、いわば無意識的に大部分動かされているのと同じである。(wiki『理性 ショーペンハウアーによる定義』より抜粋)
いや、もうこれを読んで『そうなんだ』といえる人は素敵です。僕にはさっぱりわかりませぬ。
しかし理性がわからなとして――つまり『抽象的認識』がわからずとも悟性=直接的認識がわかれば、Aがわからうずともその対義語となるBがわかれば、すなわちAを理解するに等しい。
はて、しかしこれは対義語なのかと問われると、そこも怪しいのでございますが、そんなわけで、僕は理性を知るために悟性を理解しようと試みます。
悟性、一般論としては、対象を理解する能力が悟性であり、その理解をもとに推論を行うのが理性である。一般的には「思考の能力」などの意味で用いられる。
禅においては「ごしょう」と読み、人間に備わっている悟りを得る資質を意味する。達磨の著作とされる書物に「悟性論(ごしょうろん)」がある。
(wiki 『悟性』より抜粋)
なるほど『対処を理解する能力』ということは、それは動物が持っているこれは食べ物、これは危険、これは興味ないと対象を理解する能力が悟性なのだから、人間で言えばそれはトイレットペーパーだと、用を足すのに必要なものだと理解するのが悟性。
理性はそのトイレットペーパーがこの値段ならお買い得だとか、家に十分ストックがあるから今は必要がないと捕らえる認識力のことを示すのでしょうね。動物であれば、お腹が減っているかそうでないかも判断せずに本能に従って、それが食べ物だと認識できれば食べるのでしょうし。
では、今のご時勢、トイレットペーパーを余分に買おうとするのは理性なのだろうか?
たぶんそれは理性なのでしょうね。理性があるから不安を解消するために不安を解消するのに“必要な量だけ”をみなさん、お買い求めになった結果だと思いたいです。
理性に対するのは悟性ではなく、欲動或いは情動という言葉が適切です。理性は欲動を抑え、情動は理性を狂わせる……ですかね。もちろん欲動も情動も悪ではありませんし、すなわち理性は善ではありません。理性をよく用いるために必要なのが悟性だと僕は理解しています。
哲学的な解釈や学問的に深く追求した話と言うのは、どもうある域を超えると焦点が小さくなりすぎるように思うのですよね。理は“ことわり”であり、悟は“さとり”であるとするならば、この二つは知性をつかさどるいわば両輪のようなもの。
ことわりにだけ偏れば、自ずとゼロイチの世界、つまりデジタルになっていきます。悟性の表れは経験則によりたとえば世界は5つの要素、「地」「水」「火」「風」「空」によって成り立っているという『五大』或いは「木」「火」「土」「金」「水」にたどり着く『五行』そして「空気」「火」「土」「水」の四大元素に「エーテル」を加えた5元素。
現象としては分子や原子を発見する力を持っていない人々からはとても自然な考え方であり、理性をどこかぶっ飛ばさなければここまで体系付けることはできなかったと思います。
実際これらの考え方は、科学的な実験や理論的な推論によって覆されていくわけですが、それでも五大や五行というのは信仰や習慣の中に溶け込んで、今でも身近な存在です。
天動説と地動説もそうですね。ボクらの生活にとっては実はどちらでもよくて、むしろ『日は昇りまた沈む』という現象を地球が回っているからとか考える必要は日常はないので、そのような日常においては理性よりも悟性によって『今日もお天道様が拝めて感謝』となることが、より人間らしい生き方だと僕には思えるのです。
そしてそのような太陽を神とする信仰のなんと世界に多いこと。これはつまり人類にとって太陽とは理性でいうところの銀河系にある恒星のひとつではなく、悟性による生命の源であることのほうが、『生きる』ということには重要なのだと思います。
では、理性は必要ないのかといえば、とんでもない! 理性なくして悟性も正しくは働きません。太陽の神に生贄をささげることを止めるのが理性です。それを蛮行とは言いませんし、信仰には歴史や文化があることは重要なことです。
そして理性はなによりも悟性が導きだす解答の『答え合わせ』になくてはならない存在です。人の認知は常にアップデートしていきます。それは農業革命、宗教革命、大航海時代、産業革命、世界恐慌、世界大戦、冷戦時代、IT革命……人類社会が大きく変化するたびに人の認知度は変わってきました。科学も観測技術の向上とともに世界の形が少しずつ変わって見え、それによって、それまでの常識が覆されたことがどれだけあったでしょうか。
医療で言えば、消毒の基礎ができたのはつい最近のことで、予防接種にしたって注射針を使いまわしていたわけですからね。
さて、雑多にいろいろと書いてまいりましたが、僕が今回言いたかったこと――それは、知識、認知、理性、欲動、情欲、悟性といった言葉を常に傍らにおいて、物事を多面的に見ることで、多元的な思考を身につけることで、常時の平穏な暮らし方、非常時の安全なすごし方、そして個で身につけた『知』は共有し、一般化することで人はアップデートしてきたという事実をもとに考えるのであれば、古きしきたりやことわざにも、ここまで積み上げてきた人類の叡智が宿っており、空を見上げて太陽や星や月から得られる人のあるべき姿に、目を向けてみてはどうかというお話でした。
昔の人からすればなんと贅沢なことでしょう。
月を眺めながら、うさぎを想像したり、竹取物語を思い返したり、アームストロングのことを考えたり、会えないあの人のことを思い出したりできるのですから。
生きていればこそ、世界の森羅万象に好奇心を抱き、存在そのものに感謝をできれば、何も慌てることはないのではないでしょうかね。
不要不急という言葉も、カメラをずっと引いてみてみれば、いまだからこそ、できることもあるというものです。
今夜はスーパームーンだそうで、ご自宅の、ご近所の月が見えるところから、あれこれ人の世の行く末を考えながら一杯やるのも、悪くないんじゃないですかね。