今日まで表現者でいられたこと
先ほど、様々な表現者が舞台に立つイベントを見てきた。
友人が多く舞台に立っていることもあり、是非とも行かねばならぬと足を運んだわけだが……
思いもよらず上のような気持ちになった。
表現をしていくことは、かなり簡単だ。
そして、かなり厄介で続けづらいことでもある。
それは、もしかしたら、表現というものが瞬間的な衝動の煌めきのようなあり方をしているからかしれない。
瞬間で煌めくものが、続くのは難しい。
毎夜、空一面に花火が続くとしたら、困るだろう。
(その反面、今すぐに何かを、ひとまず表現することはいつでもできる、だから簡単だ)
そして、表現は、表現者の人生をエネルギーとしているところがある。
表現には、その人の人生の断面が織り込まれているような感じがする。
だから、表現と表現者(の人生)は相互的に作用していくので、表現の歩みというのは安定した飛行にはなりにくい。
表現というのは、安定を求める世の中の側から見たら、「わざわざ何やっているの?」というところがあるのだ。
(表現をする人の中には世の中的にはややこしい人もいる、でも、表現なしの世界は嘘っぱちのようになる)
とまあ、小賢しいことを書いたものの、結局は、冒頭の言葉に戻る。
表現活動を続けられたからこそ、表現の中で報われることはあるし、それを他の人の表現として鑑賞した際には「よかったね」という感覚にもなる。
表現活動を続けられた裏には、続けられなかった人々がいる。そして、支えてくれる人がいる。
世の中から表現そのものは消えることはないけど、それを担う様々な人や物はうつろう。
自分は、パフォーマーとしてエンターテイナーではありつつも、どうしても表現者だという自分をいつも意識してしまう。
そこが、もしかしたら、自分のアイデンティティなのかもしれないとさえ思うことある。
それを再確認できる時を、先ほど私は過ごしていた。
感謝したい。
表現を浴びたからには、やり返したくなる。
これは業なのだろう。
人生の断面を織り込んで、今度は私の側から皆に浴びせる番だ。
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