経験者が考える場面緘黙アレコレ② 「ありがとう」を思い付かなかった子が、好きを嫌い、嫌いを好きと言ってしまう子になった話。人の気配は怖いよ、という話とか。
シリーズで書きたいと思っている場面緘黙症話、パート②です。また今回も、当初のテーマから暴走気味ですm(_ _)m
私は、小1で「とりあえず声を出す」ことが出来るようになった場面緘黙症経験者です。
年少で幼稚園に入園したその日から、家とあまりに違う環境に私はカルチャーショックを受け飲み込まれてしまい、声の出し方が全くわからなくなっていました。
視覚優位のためか、入園式で着ていた服の柄や、紙で作られた風車を一人ずつもらったこと、年少でみんなでTシャツを作って写真を撮ったことなどの記憶は断片的に残っています。
年少では、周りを傍観者として見ていて、話せないことを苦痛だと意識出来ていたかはよく分かりません。
お遊戯会で歌を歌う時にのみ声が出ることに驚いていた記憶はあります。
(本番では来ている服の胸元のリボンの形が乱れないように気にしていたなあ…)
おそらく年中頃から、周りの子がグループを作り始め、話さない私に色々と声かけして来た記憶があります。
お弁当を食べる席は毎回自由で、私は最後までウロウロし残った席に着く。「あ、喋らんやつが来たでー!」と苦手な男子が言う。
私は泣くことも席を立つこともなく、皆が別の方に気が逸れるのをじっと待っていました。
お弁当にみかんが入っていた時、薄皮をどうしたら良いか分からず、家では出していたそれを飲み込んで苦しかった思い出も。
とにかく全ての行動が正しいかどうか気にして周りをキョロキョロしている子供だった気がします。
自由遊び時間に鉄棒に行くと、ここは私たちの場所!と強い女子グループに言われる。小さい子用の?低い鉄棒の方を指差し、空いているよと言われる。
(鉄棒遊びでは、よく足を引っ掛けてぶら下がり、「キラキラの石(石英)」探しをしていたなあ…一人遊びをそれなりに見出していたらしい)
おそらく年長の頃、おままごとに誘われ、内心喜んで参加したものの、「〇〇ちゃん(私)は赤ちゃん役。赤ちゃんは喋っちゃダメ」と、私が緘黙で話せないことを暗に含んだ言い方をしてくる子に、どうしようもない恥ずかしさや怒りを感じたことも。(この時は「赤ちゃんは寝ていなきゃダメ」とも言われ、幼稚園の奥の物置に連れて行かれたという…)
また、幼稚園の先生も話さない私を何とか声を出させようとしていたようです。
お昼にコップを忘れ、どうしようどうしようとなっていた私は、気付いた先生からコップを貸してもらいましたが、それを返しに行くと、先生は私の真正面に立ち、「なんて言うの?」と上から見下ろして聞いてくる。
この時、私は「緊張ゆえ」ありがとう、と言えなかったのではなく、本当に「ありがとう」という言葉を思いつかなかったのです。
どうやら、普段から、苦手な挨拶は家でも避けていたし、親や姉妹にもありがとうごめんなさいを言った記憶がない…。
躾の問題という面があったかはわからないけれど、それ以前に、他人とのやり取り言葉を私が苦手としていたという直感があります。
おそらく、今思えば、これはASDゆえの言葉の理解の拙さ、相手との距離感の苦手さ、交流することへの恐怖から人を避けてきたことなどが原因かと自分では考えています。
(今思えば、コップを返しに自分で席を立って先生のところまで行けただけでも偉いよ私…と褒めてやりたいんだけど)
このような経験から、「話せないこと」はとてもおかしなことであり、そんな自分は間違っており、何とかしなければいけないという気持ちが幼稚園年長の後半には高まっていたように思います。
小学校に入学し、しばらくは休み時間にも席を立てない子でしたが、その時に「一緒に遊ぼう」と声をかけてくれた女の子が一人いました。この絶好の機会を逃してはいけないと、咄嗟に「うん、何して遊ぶ?」と答えたのが、一応「声を出せた」という意味での場面緘黙症克服のはじめの一歩でした。
しかし、場面緘黙症というものは、少しだけ言葉を発することが出来た時点では治ったとは言えない。
おそらく、4年生頃までは、イエスノーの返事か、周りの子の言葉に同意して頷き、「そうだよね〜」みたいな演技をするとか、そんな方法でしか友達と関われなかったため、徐々に苦しくなっていきました。
家では当たり前のように自分の思いを出せていたけれど(今思えば、興味関心への偏りや他人に意見を押しつけることなどが強くあったなと思いますが)外では「出し方が分からない」これはとても苦痛なものでした。
また、周りの子の中で流行っているものに常に遅れている、ということが、当時の私に取ってはとても大きな悩みでした。
音楽はほぼクラシックのみ、幼児期は教育テレビ(今のEテレ)といくつかのアニメしか見せない、という家庭環境が理由としては大きかったかも知れませんが、母親にもASD特性があり柔軟性が無かったため、この辺りは全部繋がっているのだろうなと…
小学校高学年頃から、流行りのものを知らなければいけない!と当時流行っていたドリカムやB'zなどのシングルCD(当時はこれの貸し借りがクラスで流行っていた)を買ってもらっては繰り返し聴き、クラシック脳を変えようとしたり(笑)、もう少し後だと、中学でファッション雑誌などを買い勉強したりしていました。
「大人らしい」ファッションに強い抵抗があったため、これはとても苦痛でした。
この辺りから、何とか「普通」に見られるようにと努力していましたが、何故こんなに苦しいんだろう?と思いつつ、止めることは出来ませんでした。
中学でも忘れたいエピソードは沢山あるのですが(話せない自分、つまらない自分と思われたくなく、道化をしているとクラス総無視を食らったり)、自分の意見を言えないことを晒し者にされ、恥を欠いた忘れられない話があります。
中学では、土曜の部活前には、外へお昼を買いに行って良いことになっており、近くのコンビニへ行くことを皆楽しみにしていました。
ある日、(そう、幼稚園のおままごとで物置部屋に閉じ込めてきた時の首謀者が、何の因果か中学で同じ部活仲間となり、まさにその子が)コンビニで買ったある新商品を一口食べ、「ああこれ不味いわー、〇〇(私)、食べてみて」と言って私に手渡して来ました。
チーズのブリトーのようだったそれは、(あれ、これ美味しいやん…)(関西人です)となったものの、相手は不味いと言う。
それなら「不味い」と答えねば、と思った私が、「うん、チーズがちょっと濃くてあんまりだね…」みたいなことを捻り出して言った途端、その子も周りの子達も爆笑。
「こいつ、なんでも他人の意見と同じこと言うで〜!」
周りの子の表情を見て、さすがに私もはめられたことぐらい分かる。
これは周りに笑われたショックでよく覚えていますが、これに似たことは沢山あった気がします。
相手への苛立ちよりも、自分がなぜ他人の意見に合わせてしまうのか、自分の考えよりも「半自動的に」他人の考えを優先させてしまうのか、その理由が分からないことが辛かったです。
それまでの傷つき体験や、自分の住む家庭と他所との違いなどから、自分を防御しようと必死だったことを、この時は理解していませんでした。
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今、「普通を装おうとし、本心を隠し、擬態が上手くなっているため発見され辛い」ASDについての関心が高まっているそうです。
自分と他人の区別はつく。周りの人への関心も強い。
しかし、どう振る舞えば良いか分からない。
それまでの経験などから、何とか周りに合わせるとか、自分の意見や趣味なども隠すといった手段で対処する。
そんな子は、思い出すとクラスに数人はいたかもしれない。
名前を呼ばれた時に、どれぐらいの間で答えるか?相槌を打つタイミングは?同意する時に首を振るフリを真似するけれど、なんとなくぎこちない気がする。自分を出せないためか、渾名を付けてもらえない。いつのまにか一人残ってしまうor浮いてしまう。
このようなことは、話せるようになってからの新たな悩みとして、自分に押し寄せてきました。
私自身は、「相手に対してどう振るまえば良いか分からず、まだ擬態を身につけていない」幼児期には、究極の形として、「特定の場で話せない場面緘黙症」という症状になって出ていたように思います。
(こう言うと、「擬態」も生きていく術として必要なものだ、それを身につけられるのは良いこと、と取られるかも知れませんが、薄ASDであるらしい私に取っては、家以外の「いついかなる時も」「友人とでも」擬態をするというのは、息が詰まる非常に苦しい体験なのです。どこでもいい、一つでも息が楽に出来る相手が欲しいけれど、夫にすら擬態せざるを得ない自分にはとても難しいことです)
場所に対する緊張についても、場面緘黙症ではよく挙げられますが、ここには「人の気配」が関わっていると私は感じます。
私自身は、「家族以外の人がいない自然の場」では非常にのびのびしており、遊園地など「人が作り」「沢山の人間がいる」場では緊張が強くなったため、
昔の自分は、人の気配、存在というものに強く反応する人間だったんだろうなと感じています。
また最後に飛躍していますが、どうやら「擬態ASD」だったたらしい元場面緘黙症の体験談でした。
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