見出し画像

人生を変えた一冊

私には、私の人生を大きく変えた本がある。
本、というより一つの作品、と言った方が正しいか。
変えたといっても、それは価値観の範疇だが。

それは太宰治の『火の鳥』という作品だ。
広く知られている人間失格や走れメロスは知っていても、火の鳥と聞いて太宰の作品だと気付く人間は少ないかもしれない。火の鳥と聞けば、手塚治虫が思い付く人の方が多いのではないだろうか。

火の鳥、文字通り不死鳥の話である。しかしそれは鳥ではなく、一人の女性だ。不死鳥のように懸命に生きた儚くもいじらしい女性の物語なのである。

私はこの作品を題材に卒業論文を書いている。
人生において、文章を書き連ねるのが仕事だった最後の瞬間を、私は火の鳥に使いたかったからだ。それくらい、私にとってこの作品はかけがえがない。

『火の鳥』は六人の登場人物それぞれの「愛する」の意味がありありと表現されている作品だ。当時の固定概念に囚われることのない、純粋で愚直な恋愛模様は、波乱万丈な人生を歩んだ太宰の、彼らしさをも感じ取る事が出来る。彼らの恋愛観や価値観は全く異なるが、一人ひとりのそれは時に荒々しく、そして時に繊細に表現されている。銀座のバーで運命的な出会いを果たした須々木乙彦と高野さちよ。二人の男女の出会いから、悲しくも美しい未完の愛の物語が展開されていく。

ざっと、作品の説明は上記の通りである。「愛する」という行為の、その意味を非常に考えさせられる作品なのだ。私はこの作品に出会って、恋と愛に明確な区別を付けるようになった。そして愛の意味について、考えさせられるようになった。

好きな、台詞があるのだ。少し長いが読んでみてほしい。

「(中略)いいかい、真実というものは、心で思っているだけでは、どんなに深く思っていたって、どんなに固い覚悟を持っていたって、ただ、それだけでは、虚偽だ。いんちきだ。胸を割ってみせたいくらい、まっとうな愛情持っていたって、ただ、それだけで、だまっていたんじゃ、それは傲慢ごうまんだ、いい気なもんだ、ひとりよがりだ。真実は、行為だ。愛情も、行為だ。表現のない真実なんて、ありゃしない。愛情は胸のうち、言葉以前、というのは、あれも結局、修辞じゃないか。だまっていたんじゃ、わからない、そう突放つっぱなされても、それは、仕方のないことなんだ。真理は感ずるものじゃない。真理は、表現するものだ。時間をかけて、努力して、創りあげるものだ。愛情だって同じことだ。自身のしらじらしさや虚無を堪えて、やさしい挨拶送るところに、あやまりない愛情が在る。愛は、最高の奉仕だ。みじんも、自分の満足を思っては、いけない。」

如何だろう。これは以前「愛を表現すること」という記事にも掲載した一節である。この文章を読むと、愛は表現無しには存在し得ないことが良くわかる。言われてみれば、そうではないだろうか?考えてみてほしい。

あなたが愛されていると感じるのはどういう時、どういう瞬間であろうか?愛していると言われた時、抱きしめられた身体があたたかいと感じた時、美味しい食事を共にして幸せだと感じられた時、さようならと言われた時。いくらでも、そんな瞬間はあるだろう。恋人に限らず、家族や友人からの愛も含めてだ。

これは相手の行動なしに存在することは可能であるだろうか。「好きだ」と言われず相手を疑う若い女の子がよくいるが、「一緒にいてくれている」というのが愛の存在証明だと思う。しかしそれでさえ「一緒にいる」という行為がなし得ているのだ。考えてみればきっと、どんな愛し方でもそう思わせる表現があるはずなのである。

その上で、太宰はこうも言っている。「愛は最高の奉仕だ。みじんも、自分の満足を思っては、いけない。」と。この言葉が、私はとても好きなのだ。恋と愛が一線を置くのはこれが理由ではなかろうか。

「愛する」という行為において本来自分の満足は不要なのだ。
良く考えてみてほしい、私も含め、みな恋人には「期待」を抱いているのではないだろうか、愛する上でなにか対価を求めてはいないだろうか。求めているからこそ、当てが外れるとイライラしたり、喧嘩になったりするのではないだろうか。恐らくそうなのだろう。

相手に何かを期待するのは「恋している」が正しい。親は子に対価を求めない。例えば朝子供を起こして朝食を食べさせ、着替えを洗濯してやり、学校へと送り出す。帰ってきたら学校で何があったか話を聞いて夕飯を作り、風呂に入ったら髪を乾かしてやる。この行為に対価を求める親は恐らくいないだろう、これが愛なのだ。親は子に恋はしない。

愛の所在自体は表現にあり、恋するのも簡単だが、それを愛するという行為に変えるのは難しい。そこに存在する絵画が、風景として動き出さないのと同じ感覚のように思える。愛はあるのに愛することがなかなか出来ない。夏目漱石が「I love you.」を「月が綺麗ですね」と訳したが、その返事が「私死んでもいいわ」なのも同じ理由だと感じた。死んでもいいという極論は、対価を求めない最終形態のように思える。やはり愛は、対価を求めない。

このような考え方は世間的にもよくある考え方ではあると思う。だが改めて考えてみるととても奥が深い。どんなに疲れていても、どんなに悲しいことがあっても、それをお首にも出さずに優しい挨拶をおくる。それが愛だ。それを無理することなく、当たり前のように、自然に出来ることが、その人を愛しているという証明になる。私は家族以外にそんな気持ちになったことは正直一度もないように感じる、全ては「恋をしていた」だけなのだろう。

いつか出会いたい。心から「愛する」人に。
自己犠牲をも厭わない、まだ見ぬ運命の人に、思いを馳せて。

この記事を読んでくれた方、もし気になったら青空文庫で『火の鳥』をぜひ読んでみてほしい。この作品は未完になっている、未完であることも私は意味があると思っているが、読み手次第のリドルストーリー仕立てであるので、貴方らしい「愛している」の形を、見つけてみていただければと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?