
歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 09
Before…
【十三】
三連勤の三日目まで、陽が口を開くことは無かった。秀太もまた、口を開くことをしなかった。ここからは、陽の感情次第だと直感したからである。一度連絡したところ、宗次も同意を示した。彼を引っ張り出す術は使い切った。後は、藤瀬陽という一人の人間の力で上がってこい、と。
三日目の交代時間に、秀太は陽に語り掛けた。
「一つ教えてくれないか。こないだのあれって、何よ?明日休みなんだ。青海を幸せにする手掛かりが欲しい。お前の青海への愛とやらは、どれくらいなんだよ?愛する人を幸せにしたいなら、最善を尽くすべきなんじゃないのかよ?」
陽は部屋の隅で体育座りのまま、顔を上げた。虚ろな表情で、明後日の方に目を送る。そこに青海は映っているのだろうか。
「まぁ、いいや。青海は報われねぇな。」
そう呟いて代わろうとした時、陽は飛び上がって檻を蹴り飛ばしながら咆哮した。その雄叫びに、秀太の身体は硬直した。
「薫を救ったのは私のはずで、薫を解放したのもまた私のはずだ!報われない、報われないとは!薫は楽になったんじゃないのか!薫が救われないのならば、私は息をする理由が無い!」
陽の咆哮に、秀太も感情剥き出して怒号を返す。
「なら腹割って話してみろよ!いつまでそこで蹲ってんだ!青海を救ったってどういうことだよ!お前の手で青海の首絞めたんじゃねぇのか!」
突き付けられた言葉に、陽は膝から崩れ落ちた。紛れも無く、青海薫の首を絞めたのは藤瀬陽である。陽は、格子の外に向かってまた一つ咆哮した。何を話しているか分からず、看守長が出てきても尚叫び続けていた。大騒ぎになっても、血を吐きながら叫んでいた。叫び続けて声帯が壊れたのだろうか。三十分近く叫んだところで、咆哮は止んだ。そして、擦れ切った声で、宗次の鬼の眼にも勝る鋭い目で、陽を睨みつけて言葉を残した。
「0831。忘れるな、0831だ。薫が残したデータの中に、パスワードが0831のものがある。それを見つけ出せ。そして、それを読め。読んだ上で、同じ言葉を私に吐けるか再考しろ。いいな。」
翌日、夕方頃に「青海薫のパソコンに残された膨大なデータの中から0831で開くデータが見つかった」と中井から連絡があった。それをプリントアウトし、弥勒寺家で宗次、秀太、中井で集合した。そして、三人はその紙を見る。それは、一通の長い手紙であった。藤瀬陽に贈られた、一通の手紙。果たしてそれは、「手紙」というよりも別の言葉で表現すべきものではなかろうか。
陽へ
私はもう疲れたよ。病院に行かなかったのは、それを認めたくなかったから。職場から散々勧められたけど、自分でその事実を肯定することが凄く嫌だった。だから、行かなかったんだ。
初めて一緒に仕事した時、もうちょっと明るく仕事しなよって思ったよ。私と過ごすようになってから、少しずつ明るくなってきたよ。いつも助かってるなんて言ってくれるけど、私の方がよっぽど助かってる。ありがとう。
私のお願い、聞いてくれないかな。最期のひとときまで、一緒にいて。私は、陽に看取って欲しいよ。八月が、もう終わっちゃうよ。九月を迎えたくない。陽と、永遠に八月三十一日を過ごしたい。
今日まで、凄く楽しかった。一緒に仕事して、付き合うことになって、職場離れちゃっても、陽のお陰で頑張れた。週末の為に、頑張ったんだ。毎週陽に会えるのが楽しみで、そこに楽しみがあったから頑張れた。陽と会えない週末は辛かった。陽は私の為にたくさん幸せな時間をくれた。私は、何か返せるのかな。
私、最期まで我儘でごめんね。そして優しい陽でいてくれてありがとう。私の願いを叶えてくれたら、もう会えないかもしれないからね。最期に会えて良かった。私は今本当に幸せだよ。幸せのまま、終わりにさせて。笑ったまま、陽の前では笑顔のまま、終わりを迎えたい。お願い。よろしくね。ありがとう。
重厚な沈黙が場を支配する。宗次が煎茶を入れて、無言で三人が飲んだ。読み返せば読み返すほど、三人ともに言葉が出なくなる。
長い沈黙を経て、秀太が口を開いた。
「これって、遺書ですか…?」
二人の首が縦に振られ、無言の肯定が返ってきた。謎は深まるばかりであった。秀太は、陽に投げつけた言葉を振り返る。
「同じ言葉を私に吐けるか再考しろ。」
少なくとも、同じ言葉はもう言えない。熱い茶を飲み干し、宗次が重い口を開いた。
「藤瀬の口から、この内容について吐かせる。俺が看守の当番に加わる。前線に本格復帰する。今の状況が、一番誰も救われねぇ。」
救い。青海の手紙が真実ならば、青海は救われたはずだ。藤瀬は青海を救って監獄にブチ込まれていることになる。それは果たして善なのだろうか。法で定められている通りに罰を受けることが救いであり、幸福なのだろうか。藤瀬があのザマでは、法の定めに従って罰を受けることになるが、藤瀬を再起させれば、この現状は変えられる。自責の念に苛まれる藤瀬陽を救う方法は、あるのだろうか。
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