
歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 06
Before…
【十】
秀太が出勤した時、陽に微小たる変化が起きたことを知らされた。意思の疎通が図れるようになっていた。図れる、と言い切っていいものかは疑問符が付くが。
陽の独房は独自形態で、巡回ではなく交代で常に見張りが付く。それに堪忍したのか、自死を諦めるより仕方無かったようだ。ずっと部屋の片隅に座り込んでいる。その時、ふと漏れた言葉を当番者が聞いた。そこから若干の会話が続き、また元通りになってしまった。その記録を見る。
―午後十一時八分
藤瀬が呟いた。内容は以下の通り。
「薫、君は今頃笑っているのかい?」
応答。
「青海のことか?」
藤瀬、返答。
「はい、私がこの手で殺めた優しい優しい女性です。あの人は今、笑っているでしょうか。それとも、憎悪の炎を私に浴びせようと支度しているのでしょうか。」
応答。
「私には知る由も無い。そろそろ藤瀬も黙秘を止めて、事件の真実を話してはどうだ?藤瀬の言葉とは、辻褄が合わない部分が沢山ある。それでは、青海も浮かばれないだろう。」
藤瀬、返答。
「私が口を開けば、あの人はきっと笑わない。」
応答。
「それは、蓋を開かないと分からない。」
藤瀬、黙る。
―午後十一時十分
以後、異常無し。
秀太は裏があると確信した。宗次の赤伴を看守長に見せた。そして宗次とのやり取りの一部始終を伝えた。看守長の口角が緩む。
「前任から引き継ぎの時に聞いてはいたけれど、本当に存在するとはね。都市伝説の一環だと思っていたよ。分かった、鬼仏の一言があるなら従おう。山辺、頑張れよ。」
「はい、ありがとうございます。昨日の記録を見ました。奇しくも私と同い年、何か開けるものがあると信じて目一杯努めます。」
「良い心掛けだ。頼んだぞ。藤瀬シフトは調整しておく。」
「承知しました。行って参ります。」
午前七時十五分、引き継ぎを受けて陽の独房の前に立った。陽は初めて見た時よりもかなり痩せ細ってきている。このまま餓死するつもりか、と思ったが、食事は摂っている。記録にも残っているし、秀太自身も陽が食事する場面を目撃している。
「藤瀬さん、確か二十九歳でしたよね?」
早速試した声掛け。ひと風吹けば消えそうな返事。
「はい、薫と同じ。」
「俺も同じです。仲良くやりましょうよ。」
次に返ってきたのは沈黙のみであった。時計の秒針の残響が繰り返される。八、九と短針が回る。秀太には特に深い考えがある訳では無かった。とりあえず話をする。今日の目的はそれだけであり、呆気無く達成されてしまったからだ。短くか細い蜘蛛の糸を切らないようにするには、藤瀬によじ登ってもらうより他に無い。また、垂らす時期も逃してはならない。ここぞ、という場面で垂らし、少しずつ登らせ、無限地獄から脱却させて有限の獄門を潜らせなくてはならない。
午前九時三十分、もう一度糸を垂らそうと試みた。
「タメ年だから、気軽に行っていいっすか?」
返事は秒針の音のみであった。秀太は吐きかけた溜息を飲み込んだ。ここで悪印象を与えてはならない、と彼の本能がそうさせた。そして時計の針は進み、短針と長針、秒針が一致し午前を終えた。
この数時間で、秀太に妙案が浮かんだ。看守長にその案を実行する許可を得ようと試みた。
「昼食ですが、藤瀬の独房前で済ませてもよろしいでしょうか?一時間は休憩中ですから、看守の山辺秀太では無く、一個人の山辺秀太として接してみたいのです。許可を頂けますか?」
看守長の了承は即答だった。昼食を持ち、休憩中の見張りと代わった。
「俺今日五時までだからさ、せめて飯でも一緒に食おうよ。俺ここで一番若くてさ、二十代俺だけなんだわ。陽さん、飯持ってきたよ。」
陽の表情にあからさまな驚愕が滲み出た。覚束ない足取りで立ち上がり、鉄格子を隔てて二人は昼食を摂る。
「教師やってたんだってね、すげぇじゃん。俺と同じ公務員だ。看守とどっちがブラックかな。」
陽はゆっくりとスープを飲み、秀太に応じた。
「私と同じ目線に立った看守さんは初めてです。何故、こんなことを?休憩中はいつも他の人が来て、一時間後に元の人が来るのに。」
相変わらず秒針に負けそうな声量である。だが、何かを掴めそうな気がする。糸を垂らすなら、今だ。
「今は休憩中だから、看守じゃなくて一人の人間として話してみてぇって思ったから、かな。そりゃだんまりされちゃあ色々気になるけどさ、それよか仲良くやろうぜ。基本週五で俺になったからさ、ずっと黙ってると時間ってゆっくりに感じるじゃんか。」
陽の伸び切った無精髭に、食べかすが付いている。教えてやると、陽は照れたように口元を拭って言葉を返した。
「そうですか、それはありがたい…。毎日毎晩、薫のあの笑顔が消える瞬間が何度も脳裏に浮かんでは消えていくのです。それに慣れたのが、否、慣れてしまったのが昨日でした。ふと、独り言が漏れてしまったのです。」
秀太は興味津々を悟られぬように、サンドウィッチをひと齧りして会話を続ける。
「引き継ぎの時に記録読んだよ。それよかタメ口でいいって。」
「私、そういうのは苦手でして…。職業柄、ですかね。」
「そっか。なら深くは聞かねぇし気にもしねぇや。とりあえずさ、人助けだと思って時々俺に話し掛けてくれよ。そしたら愚痴でも何でも聞けるし。」
そして、一か八かの一撃を放った。失敗すれば、間違いなく全てが藪の中に埋もれてしまう一撃。
「それにさ、本当のこと話してくれたら、青海薫さんも救われるよ。」
陽はスープが入った器を落とした。明らかに動揺している。迷いが見える。この一撃はやはり効いた。問題は、どちらに転ぶかである。
「薫が、救われる…。私が殺めた薫が、救われる…。薫。」
陽はとめどなく涙を流し続けた。全身の水分が一滴残らず涙腺に集中したかのように、ひたすら泣き続けた。その涙は午後三時を過ぎた頃に漸く止まり、微かな嗚咽と秒針が刻む音のみが独房に響いていた。二人とも口を開くことは無く、秀太の交代時刻になった。引き継ぐ記録に、出来事をありのまま残した。看守長にも報告した。
「何かが変わりつつあるね。後は、刑事さん達が青海薫について何か見つけてくれれば、藤瀬を揺さ振れる。良い意味でね。私もこの怪事件の真相は知りたくてたまらない。山辺、無理しない程度に頑張ってくれ。」
秀太は立派な返事を一つして、宗次に連絡し一連を伝えた。
「そのまま続けろ。もうすぐ青海の捜査が深いところまで行く。中井が明日持ってくることになってるから、明日の夜九時にこないだの屋台だ。明日も頼むぞ。」
家路を歩きながら、あの一撃の効果について考えた。あれは藤瀬陽という一人の男にとって、救いの光だったのか、はたまた心臓を貫く槍だったのか。それは、時間を重ねないと分からない。
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