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歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 17

Before…

【二十二】

 薫の、この依頼だけは絶対に受け入れられないものでした。何故、私が、最愛の、貴方を、手にかけねば、ならないのだと、即座に拒否しました。

「そんなこと、できるわけないじゃないか。」

 薫は笑顔のまま、手紙の内容を復唱するのです。

「八月、陽と沢山一緒にいられた。幸せだった。今、私は幸せの頂点にいるの。ここから落ちていくくらいなら、今日ここで終わりにしたいの。七月、何度も陽のいないところで試したけど、私じゃ怖くてできないの。それに、陽のいないところで消えてしまうのは嫌なの。私を、看取ってよ。」

 話の途中からは、薫は笑いながら泣いていました。私は、それでもなお受け入れずに黙って薫を見つめていました。すると薫は台所の一角を指差して言葉を続けるのです。

「九月になったら、私はあの包丁で自分の人生を閉じる。そこに陽がいなくても。もう、疲れちゃった。真っ赤でぼろぼろの最期になるくらいなら、綺麗な顔のまま、陽が見てくれてるところで、怖がりな私の代わりに、陽の手で、終わりにさせて。お願い。」

 私は生涯でこれ以上の葛藤を味わうことは無いだろうと思います。私の手で愛する貴方を楽にさせなければ、貴方は自らの手で四肢を、肢体を、切り刻んでしまうと言うのですから。そして、行き着く場所は同じ。それは目的地へタクシーで行くのか、或いはバスで行くのかくらいの違いしか無い。運転手が違うだけで、結局行先はあの世です。

 この時、私は一滴だけ涙が出たことを鮮明に覚えています。私が天国へ送り届けるか、薫が自ら地獄へ飛び込むかの二択だと思ってしまったからです。

「陽に届けた手紙、家族にも送ったの。私の家族も、きっと許してくれるから。」

 苦渋の決断を更に複雑化させられました。薫の御両親も、薫の思いを知っている。あの時の母上様の願いを叶えてあげて、という言葉はこの時の為だったのでしょうか。私の心臓に一本の弦が張りました。張り詰めました。

「陽、お願い。」

 その一言は、静かに張り詰めた弦をビン、と鳴らしました。私は薫に跨りました。彼女は私の腕を優しく掴み、恍惚の笑顔で「ありがとう」と言い、目を瞑りました。私の両腕に、力が入りました。

 彼女は一瞬呻き、そこからはずっと笑っていました。優しく、力強く私を掴む両腕が、私に更なる力を与えました。一瞬のようで、永遠のようなその時は、私の両腕が解放され、薫の表情が消えた時に終焉を迎えました。

 薫はもう笑いませんでした。動きませんでした。不思議と、冷静にそれを見つめる私がいるのです。そっと携帯電話を取り、一、一、〇を押して、こう告げたのです。

「私は、人を殺してしまいました。救急車と、警察を呼んで下さい。」

 住所を指定し、すぐに警察と救急車が到着しました。薫は寝かされたまま赤十字の車に運ばれ、それを見送って私は白黒の車に乗せられ、赤色灯を回転させてあの場所を去り、自死を試み、止められ、やがてこの独房に辿り着いたのです。


【二十三】

 藤瀬陽が最後の一枚を書き終えたのは、奇しくも三ヶ月が経過した三月最後の日だった。最後の一枚を鉄格子の隙間から渡した時、丁度宗次と秀太が交代する時だった。
「長い月日が経ちましたが、これで語ることは全てです。宗次さん、私に勇気をくれてありがとうございました。そして秀太、気の触れた私を正気に戻してくれて感謝するよ。ありがとう。」

 その一枚を二人が読み終えたのと、陽が次の行動に移したのはまさに同時だった。
 陽は右手に先端が出た三本のペンを握り、自らの左手首に突き刺した。
 陽の絶叫は建物中に響き渡った。ペンを引き抜いた時、一本が脈を貫いたらしく、その傷口は派手に血飛沫を上げている。秀太が鍵を開き、宗次と共に独房に突進した。陽は二度目の自傷を試みたが、秀太に殴り飛ばされ、部屋の隅に畳まれた布団へ吹き飛んだ。布団と壁に、絵の具をブチ撒けたような鮮血が染みてゆく。

「もう止めないでくれ。薫に、会いたいんだ。薫は天国にいる。私は地獄へ堕ちる。全て償って、薫に会うんだ!止めるな秀太!」

 宗次がシーツを嚙み千切って腕に巻きつけ止血を試みた。相当の出血量だが、宗次は諦めなかった。秀太に場を任せ、応急処置をする為に道具を取りに行った。
 秀太は巻かれたシーツを強く引いた。陽は空いた足で秀太を蹴り続ける。

「止めないでくれ、手を放せ!私が償える方法は、これしか無いのだ!」
「んな訳無えだろ!約束したろ、この二枚を読め!これ読んで同じこと言えるならもう止めねぇよ!とりあえず血ィ止まるまで大人しくしてろ!これ読まないで死んだら、絶対に青海薫に会えないと断言できる。それでも止めるなと言うなら、俺は手ェ離すぞ!選べこの野郎!」
 秀太自身、凄まじい形相をしているであろうことを自覚した。そして陽の血で染まった手で、ずっとポケットにしまっていた二枚を取り出した。紙にも血が滲む。
「薫に、絶対に会えない…。それだけは嫌だ。待ってくれ。私が悪かった。手を離さないでくれ。私が愚かでした。お願いします。薫のもとへ私を導いて下さい。その為なら、独房で生涯を過ごし最期に処刑台の階段を登りましょう。それまで、その手を離さないで下さい。お願いします。お願いです。」

 不安定な情緒が多少落ち着いたところで、宗次と看守長がやってきた。止血処置は完了し、呼吸が落ち着いたところで、秀太は陽に約束の二枚を渡した。

Next…

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