
歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 03
【六】
待ち合わせの三十分前に、秀太は今日の出来事を振り返りながら駅前の喫煙所で時間を潰していた。
―これで、今日からお前は俺の右腕だ。
あのマッチ一本に、やくざ者の盃みたいな意味があったとは。見るからに、弥勒寺という男はその辺の爺共とは格が違う。纏うオーラが違うのだ。命を懸けて前線で身体を張ってきたのだろう。自分のことを「悪漢」と言い放った。火種の元だったのだろうか。
頭の中で思考をぐるりと回していた時、まだ一本目を吸い始めて間も無いというのに、宗次が喫煙所に入ってきた。
「お、秀太じゃねぇか。早いな。」
「弥勒寺さん、お疲れ様です。本日はありがとうございました。」
予想以上に早く登場した待ち人に、秀太は慌てた。とりあえず失礼の無いようにと煙草を消そうとした時、その手を掴まれた。
「勿体無い真似するんじゃねぇ。遠慮せず吸えや。あと、堅苦しいから宗次さん、でいい。」
険しい眼光が秀太を捉える。消されずに済んだ火種は、嬉々として煙草を燃やす。裏腹に、秀太は焦燥に駆られる。部族を模したパッケージの紙煙草は、燃焼が非常に遅い。対する宗次の煙草は、旧三級品の朱色の煙草。案の定、呆気無くフィルターの根元まで燃やすのに時間は要さなかった。秀太の煙草は、まだ三分の一程残っている。急いで吸おうにも、勢いよく燃えてくれないので益々焦る。
「焦らなくていいぞ。その煙草は燃焼材が入ってねぇからゆっくり吸えるんだよ。いい選択だ。」
宗次の言葉に心を覗かれたような心地で、秀太はゆっくりと煙草を吸い終えた。
「行くか。ついて来い。」
返事をする間もなく歩き出した宗次。慌てて追いかける秀太。
「この後は、どちらへ?」
「決まってんだろ、休日の前日は飲まなくてどうする。」
威風堂々と繁華街を闊歩する宗次と、おどおど歩く秀太。人工的な輝きが届かない裏路地の先に、その店はひっそりと佇んでいた。
【七】
繁華街を歩き出した時はそういった店に連れて行かれるのかと思っていた秀太だったが、路地の先には今やすっかり見なくなったおでんの屋台があった。成程良く似合う、と腰掛けた宗次の左隣に秀太が座った時、服を掴まれ無理矢理席替えされた。
「お前は右腕だろが。こっち来んかい。おぅ、ビール二つ。あとは適当に見繕ってくれ、二人分。」
改めて座り直し、ビールがすぐに届く。秀太がグラスを下げて乾杯しようとすると、宗次の眉間に皺が寄った。
「おい右腕の秀太、俺の右腕ってことは俺と同等にしてやるってこった。俺の右腕はそんな使いもんにならねぇ欠陥品なのか?」
「いえ、そんなことはありません。右利き、ですよね…?」
「そうだ。俺の利き腕になってくれって老いぼれが頼んでるんだ。若い力を借りてやるってんだ。ほれ、乾杯。無礼講でいいぞ。」
オーラに圧倒され気付かなかった秀太だったが、グラスを当てた時の優しい微笑みはこれより先忘れることはないだろう。生半可な優情ではない。渾身の信頼の証を感じ取った。
「俺について知りたいことあったら、遠慮なく聞いてくれな。俺も聞くからよ。」
ビールを一気に煽り、お代わりを注文する。秀太も続いて空を見上げグラスを空にした。宗次から最初の質問が飛んできた。
「お前、童貞か?」
空になったグラスの中身は、さながら霧雨が如く秀太の顔面に降り注いだ。噎せ返る秀太と笑う宗次。弥勒寺家でも似たようなことがあったな、と自ら吹き上げたビールを浴びながら秀太は思う。
「おぅ、こいつに新しいビール。悪ぃな、一杯無駄にしちまって。」
「全く、宗次さんも悪い人だ。秀太さんって言ったね、歳はいくつだい?」
ビールを注ぎながら、屋台の大将が問う。
「二十九です。すみません、店先汚しちゃって。」
「ありゃ宗次さんの所為だよ。この一杯はサービスね。俺は三十五。三十までムショいたんだよね。宗次さんに拾われてさ、なんとかここで細々とやってるよ。」
新しいビールをゆっくり飲みながら、秀太は直感した。そのまま言葉に乗せる。
「宗次さんに拾われた、ってことは宗次さんに助けられたんすか?」
けらりけらりと笑いながら、大将は答える。
「鋭いね、秀太君。その通り。十八で捕まった。殺人の容疑でね。でも、殺ったのは俺じゃなかった。俺ってことで良かったとずっと思ってた。でもさ、宗次さんって不思議なんだよね。本当のことを話す気になった。真犯人は親友だった。庇ってたんだよ俺。そいつも自首するかずっと苦しんでたらしいんだ。互いに苦しかった。楽にしてくれて、この屋台のノウハウを叩き込んでくれたのも宗次さんだ。感謝しか無いよ。」
秀太の脳内にあるジグソーパズルのパーツが、また一つ嚙み合った。やはり弥勒寺宗次という男は大物だった。
「宗次さん、何故現役から引退を?」
大根を箸で刻みながら、鋭い眼光で答える。
「飽きちまったんだよ。最初は警察やってたんだ。そっからとっ捕まえた奴のその後が知りたくて、看守に移った。この屋台の大将だけじゃねぇ。俺は隠し事が嫌いでな、何人もの連中から本音を吐かせてきた。それはそいつを助けたり殺したりした。俺の手で殺したようなもんだ。実行犯が未遂で捕まってて、別の奴が実行犯だったり、その逆だったりな。口の上手い奴がのうのうと娑婆の酸素吸って、口下手が二酸化炭素を吐けなくなる。それに苛ついてたんだ。気付いたら格上げされて色んな所に繋がりができた。古巣の警察、刑事、その他色々な。だけどな、時代に合わねぇって降ろされたんだ。そこでじたばたしても、結局上に潰される。だから飽きた。そんだけよ。」
ばらばらになった大根の一欠片を口に含み、ビールで一気に流し込む。その姿が秀太にはどことなく寂しく見えた。
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